鉄道大臣

夢寐のたわごと

胸襟を開く

自分の胸の内を開いて相手に見せるのは、余程の信頼を相手に置くからである。 警戒する相手には、容易に自分の胸の内は明かさない。 「肝胆相照らす」というが、こうなると胸の内どころか、お互いの「肝」や「胆」まで見せ合う仲なのである。

一頃、企業内教育訓練の人間関係構築手法として「セルフ・デイスクロジャー(自己開示)」」を言い出したことがある。 これは正に、胸襟を開く手法である。 互いにどちらが先に自分の胸の内を見せるかを、オッカナビックリで睨み合い、様子を見合っていると、仲々埒が明かないし、相当の時間も掛かる。 そこで、こちらから先に、進んで自分の弱味(内臓=胸襟)を開いて見せようとするのが、「自己開示」手法である。

この手法は、得体の知れない相手に進んで、自分の腹の中を見せようというのだから、このを採るには、採る側にも相当の度胸と自信、安堵感、そして日頃からの「俯仰天地に恥じざる」行状が必要である。 後ろめたい人間には、容易にできる技(業)ではない。

言うまでもなく、相互に胸襟を開くことの出来る人たちが集まる集団では、既に、良い人間関係が出来上がっている。 この事実を逆手にとって、胸襟を開き合うことで、良い人間関係を築こうとするのが、この手法であった。 この手法を言い出したのは、アメリカの企業内教育訓練家たちであったが、まもなく廃れてしまった。 今は言う人もない。 文字通り「あちら立てれば、こちらが立たない」相関する手法であった。

現代は、パーソナルな情報の開示を嫌う時代になってきた。 それも無理はない。 相手に関する情報を盗み取って、互いに「騙し合おう」とする時代である。 詐欺に利用されるかも知れない自分の情報を「公示」するのは、馬鹿を絵に描いたようである。 胸襟は、シッカリと締めておかねばならない。

 

チコちゃん

NHKの番組に出で来る「チコちゃん」は、バカでかい頭、女の子供、生意気な、だが愛嬌よい口調でしゃべる「キャラ」だから、なんとなく許せるが、あの口調でだんだんと相手を問い詰めてくると、問い詰められる方は、常に自分の行動や反応を理由根拠を考えてから取るわけではないから、その内に返答に詰まって、頭へ来るに違いない。 

あの口調は、紛れもなく犯人や罪人を問い詰める「検事」の口調、刑事の口調だから、問い詰められる方は、まるで自分が「犯罪人」として扱われているように感じる。 問い詰める側は、「言い負かした」快感を感じるだろうが、言い負かされた側は、返事に困り、極めて不愉快になる。

「問い詰め」は、自分は一段上の、上から目線でしゃべるのだから、気持ちが良いかも知れないが、問い詰められる側は、自分が馬鹿者、犯罪人として扱われるように感じる。 この「問い詰め口調」は、最悪の人間関係を生む。 問い詰め口調は、おそらく習慣から生まれるのだろうが、何度も繰り返している内に、ますます、自分は優れているという感じを齎す(もたらす)ようになり、習慣化が深まってゆく。

結果として、「嫌な奴」の印象を生み出す。 よほど、チコちゃんのように、格好やおどけた口調などの他の美点で繕わない(つくろわない)限り、嫌な印象が定着し、敬遠されることになる。 チコちゃんのような「賢い(?)」嫌な奴は案外い多い。 

なぜ、なぜ、と問い詰めて行くのは、止めた方がよい。 さもないと、あなたは独りぼっちになる。 問い詰められると、こころに準備のない相手は、返事に困る。 こうして困った相手は、何時の日か逆襲する。 あなたの隙きを見て、アタンする。 チコちゃんばかり見ていないで、自分を見ることも大切にしなければならない。

 

都合(つごう)

都合には、好都合と不都合の二種があります。 老人ホームの場合、人手不足は(入居者介護の)仕事を進める上では不都合で、言い訳を述べる老人ホーム側にとっては好都合です。 介護を求める肝心のときにヘルパ~が居ないのは、人手不足の為でしょうが、肝心のときの介護を求める入居者にとっては不都合です。 助け(介護)求める者は、好都合を期待します。 その求めに不都合(介護ができない)で応えるのは「有料介護付き」の約定の違反であり、老人ホーム経営側の手前勝手です。

約束違反を入居者(背後の家族は、実情を知らない)は、詰り(なじり)ます。
だが、入居者は、多くの場合、呆けているか、「弱者」の立場に置かれていますから、約定違反を詰っても、「網の目に風止まる」の喩えのように、たいした効果はありません。 多くの場合「泣き寝入り」になってしまいます。

こうして、老人ホームの内側は、不満だらけになって行きます。 普通なら、
溜まり溜まった不満は、革命、クーデター、などへと爆発して行くのでしょうが、老人ホームでは、「熾火(おき火)」になって、入居者は死んで行きます。
地獄か、極楽かへの道連れとなるのです。

痛みは、痛い間だけ

考えてみれば当然のことだが、普通の人間にとっても、「痛い」って感じるのは、痛みのある間だけだ。 痛みが消えると、痛かったことの記憶は薄れ、簡単に忘れてしまう。 だから、痛さの手当は、痛みを感じている間は熱心に行うが、痛みが消えて行くに連れ、手当もなおざりになって行く。

他の人生の経験も同じだ。 痛い目にあうと、その時は、痛みの辛さや恨みは
心に深く刻み込まれるが、その痛みが薄れると、痛みを忘れ、辛さ、恨みも忘れて、次の行動に走る。

私は、十分に年をとっているので、滅多に世間や友達から「いじめられる」ことはないが、若者や子供が世間の荒波に痛めつけられてたり、友達にいじめられたりすると。その辛さや苦しさ、そして恨みは、その時は、身に滲みて、深く感じているだろうが、すぐに忘れ、やがて他人を「さいなみ」、「いじめる」側へ回ってしまう事が多いに違いない。

元々、昆虫や小動物を、さいなみ。いじめて優越感を感じ、喜ぶ傾向のある少数の人間は、痛みや恨みを簡単に忘れるばかりか、他の「人間」をもいじめて喜ぶ傾向がある。 こうした病的傾向をどの人間も少しは持っている。

翻って、「いじめられる」辛さは、いじめられている間は、自殺したくなるほど辛いだろうが、「いじめる」側の快感は、どれほどだろうか? 病的なことだが、他人を「さいなむ」喜びは、心理学者やその道の専門家に聞いてみなければわからないことだが、限りない喜びなのだろう。

大多数の人間は、「痛さ」や「恨み」は。簡単に忘れることができるかも知れないが、病的に他人に「痛み」を加える「精神病者」は、普通の人間としては数えられない。 こうした病的な特定の「他人いじめ」、「他人さいなみ精神病者」は、年齢の如何を問わず、たとえ,ハイテーンの若者であろうとも、人間とは数えられないのだから、「人権」などと言っていないで、見つけ次第、直ちに社会から隔離すべきだと思う。 

 

母のみが

母のみが、出産(分娩)する。

母のみが、出産(分娩)の痛み(苦痛)を体験する。

間違いなく、母は誕生(出産)に立ち会う。 父は、どうかが怪しい。  

離婚して、子を連れて出る(行く)のは、たいてい母である。

戦線で、死際に兵士が叫ぶ声は、多くの場合「お母さん!」である。

子供を教え、育て、影響することが多い(大きい)のは、母のあり方。

 

図書館学科

今は昔、私の仲間の多くは、死んでしまった。 同窓会名簿を見ても馴染みのある名前はちらほら。 その頃、珍し(いや、日本で唯一)だったXXXX大学文学部図書館学科も、小林旭の歌よろしく、♬昔の名前で♬「図書館学科」を懐かしげに語る時代となった。 今は、
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XXX大学文学部・XXX大学大学院文学研究科 図書館・情報学.  英語では XXX.文学部. . The School of Library and Information Science (略して:SLIS)
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と呼ぶそうが、♬昔恋しい銀座の柳(伊藤千夜子)♬、の感なきにしもあらず。
いつの間にやら、「情報」という新しい分野がヒッツイテきた。  ひっついてというよりも、「軒を貸して、母屋を盗られて」居るらしい。

この珍しかった昔懐かし学問を教える大学の数も増えて、今では、他にもある。 この学問に携さわる者は、いわば「本」と云うなの「なきがら」を扱う「葬儀屋さん」。 古今東西の外国人を含めた有名人、諸文豪の生身に直接触れることは無いにしても、本と言う名の「死骸=形骸」には触れる。

死骸は死骸、魂が籠もっていない。 数ある名著や書物のタイトルには精通していても、それはタイトルだけのこと。 中身は読んだのかいと尋ずぬれば、「読んでいない」と答えるのが、図書館屋さんの常のまた常。 

だが、格好だけでも、専門は専門。 図書館屋さんは、昔から「司書」という立派な肩書と職業を持っている。 たとえ、「死書」じゃないか、と侮られようとも、一端の知識人。 知ったか振りは、お手の物。 おまけに、XXXX大学という「後ろ盾」がいる。 司書商売、初めたら止められない。 名誉もあれば、金(給与)も付く。

図書が、情報へ膨らんできた頃から、「情報学」を目指す若者も増えてきたらしい。 Infoemation Science と言えば、なんとなく「神々しい」。 だが、よく考えてみると、本は確かに「図書」だが、情報は、図書の中身である。 いわば、情報の「皮」が本なので、図書館学・情報学と並べて唱えるのは、表装と本文を一緒にしているのである。

本の中身には、「名」著やそれを書いた「文豪」も存在する。 だが、「良い表装」、綺麗な「表装」はあっても、「名表装」などは、聞いたことがない。
Inofoemation Scienceは、科学として成り立っても、Book Coverの科学はありえない。 懐かしい「図書館学」と「情報学」を一緒にしたのでは、「味噌も糞も一緒」のそしりを免れまい。

XXXX大学の後輩たちよ! そして先生ズラした方々よ! あなた方は、最近の流れに押されて、味噌と糞を一緒にしている。 味噌は味噌、糞は糞。その辺りのケジメをシッカリと付けてくださいね。  

執念(しゅうねん)じゃ!

女性も、年輪を重ねると、薄毛、白髪、禿になる。 男性の場合よりも、その スピードは、概してゆっくりとしている。しかし、いずれにしても、薄毛、白髪、禿は、訪れる。 男にとっては、それほどではないが、髪は女性の命。従って、これに対する執念には、おどろくべきものがある。 

今日、友人の一人が訪れ「気付いた?」と尋ねる。なんと、「かつら(ウイッグ)
を着用している。彼女曰く。「値段は、¥300,000よ」。 ぇっ! そんなに大金を!  「たいしたこと、ないわよ。  XXさんなんか・¥4~500,000使ってるわよ。XXさんなんか、¥1,000,000は、使ってるって話よ」。 

 

 

陸前高田市

同市ではかさ上げした土地の造成が続くが、中心部の高田地区や宅地が広がる今泉地区では約7割が利用未定のまま。 今泉地区で新居を構えた男性(71)は「新居は天国。でも人があまりいないんだ」と空き地ばかりの造成地を見つめた。【小川昌宏:毎日新聞

初めて授かった我が子を抱く妻の写真をそっと指でなでた。岩手県陸前高田市仮設住宅で、佐々木一義さん(65)は「カメラを向けると『いいから!』って笑う癖があったよね。 懐かしいな」と優しくつぶやいた。 相づちを打ってくれるはずの妻を震災で失い、 8年を迎えた。
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空き地ばかりと、嘆くのは、早とちりですよ。 良い計画でした。 なるほど、人が居てこその「街」です。 でも、視野を広げてご覧なさい。 平安京も、その昔、壮大な空き地の都だったのです。 1000年たった今は、何度かの伝染病や兵乱で荒れ果てこともありましたが、200万の人口を抱える世界の都市です。

市長さん、貴方は、僅か5票の差で再選を果たされたそうですね。 貴方の夢は、拡がります。 容れ物は大きく、夢も大きく、遠い空を見上げようじゃありませんか。 岩手の彼方に、世界の都市が生まれたのです。
比叡の麓より

 

肩すかし(続)

(必:肩すかし併読)


肩すかしとは、「情を求める相手に、知で応える(対応する)」やり方だ、と先に発表した「肩すかし」で確認した。 人間は情に流され易い。 知だけで、生きることは不可能である。 従って、激しい情、優しい情、密やかな情の区別はあるものの、総じて情を求めるのが、人の常である。 こちらが如何に「知」に勝ろうとも、相手の情は尊重すべきである。

血も涙もない人間は、嫌われる。 情け深い人間は、慕われる。 知に働けば、角が立つのも当然である。 いかに有能、溌剌でも、併せて情けを備えていなければ、人の上には立てない。 リーダー(指導者)は、知と情の両面を備え、その両方の的確な使い分けを心得えているべきであり、決して、他人(部下)に肩すかしを食らわせるようなことがあってはならない。

相手が情を求めているときに、知で応える(肩すかしを食らわせる)のは、そっけないばかりか、相手の気持ちを傷つける。 こちら がその気でなくとも、相手を侮ることなる。 言い換えると、心ならずも「上から目線」で見下すことになる。 「偉ぶる」リーダーには、誰も従わない。 偉ければ、偉いほど頭を低くすべきである。 決して、「肩すかし」を食らわせてはならない。

 

 

 

肩すかし

肩透かしを食・う
追及や攻撃を行おうと意気込んで待ちかまえていたところを,相手にうまくかわされる。
・・・・・・・・・・・三省堂大辞林
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必ずしも、物事が自分の思い通りに進まないときに、思わず愚痴をもらすことがある。 その愚痴を聞いた(文章なら、読んだ)相手が、あっさり「わかった(了解)」と答えてくると、肩すかしを食らった感じがする事が多い。 相手が、「あっさり」了解するとは思っていなかったからである。 事実、了解して貰わなくとも良いのである。 むしろ、「了解」じゃなくて、「同感」して貰いたいのが本音である。

XXX大臣は、「寄り添う」という言葉を好んで使うようである。 その実、その後のこの男のあり方、やり方を見ていると、「寄り添って」居ないことが極めて多い。 寄り添うよりも、むしろ「逆撫で(さかなで)」していることが多い。

寄り添うとは、「同情・同感」することに近い。 了解は、理知的反応である。 同情・同感は、文字通り感性的反応である。 同情・同感を求める相手に、理知で応えるのは、「かたすかし」である。 パソコンの活用が拡がるに連れ、同情・同感を求める相手に、肩すかしを食らわせることが多くなることに、注意しなければならない。