鞍馬天狗

夢寐のたわごと

超高齢化社会

「超高齢化社会」という妙な名前の「社会」のことを今朝のテレビ番組で話しているのを聞いた。 どんな人が、この社会のメンバーなのだろう。 もし高齢者の事を言うのなら、そのメンバーの数は限られている筈だ。 というわけは、私が承知する限り、最近は、特に芸能人を含めて、有名人が85歳までの年で亡くなっている。 もっとも、私は、テレビ、新聞、人の噂などを通じて、知るだけなのだから、コロコロ死んでいく人たちが「有名人」に限られるのも無理はないが。

だが、もう一言加えるなら、医療保険が80代でも掛けられると、大々的に広告している保険会社があるが、この保険会社も85歳以上の人には医療保険の必要はないと心得ているようだ。 つまり、そんなに長生き(?)する人は、少ないと、この保険会社は想定している。 

愚考するのに、80歳ぐらいになると、いわゆるボケが来ている人たちが多いから、「社会」を形成するだけの知力はないと思う。 もし、「超高齢化」が80歳以上の人達の「社会」を意味するのなら、この言葉は意味のない言葉だと思う。

翻って、本当に「知力溢れる」超高齢化社会が、到来するとしたら、心から、ことほぎたい。 老人は、長生きするばかりでなく、「年の功」をひけらかすだけの元気(玄気:げんき)がなくちゃいけない。 物知りは老人の徳だと思う。 もっとも、デジタルという「機械」にはかなわない。 デジタルは、若者向きで、老人の手には負えない。

老人はアナログで、昔のこと、若かりし日のこと、他所のこと、など自分には直接関係のないことをよく知っているものである。 それを誇らしげに語ることに、「生き甲斐」を感じている。 だから、「超高齢者」には、その誇れるべき過去のこと、他所の事、語らしめる喜びを与えねばならない。 それが本当の「敬老」である。

そのチャンスを老人から奪う若者は、文字通り「馬鹿者」である。 超高齢化社会は、馬鹿者社会であってはならない。 お爺ちゃん、お婆ちゃんが喜ぶ、社会で無くてはならない。 それが、老人に知力を溢れさせ、長生きさせる本当の親孝行だよ。 

正気(しょうき)

再び、念を押す。 私は、素人である。 しかし、年輪を経ておる。 しかも、未だ、正気を保っておる。 この系列の館(老人ホーム)の何箇所ヶに渡って、20年近く住暮楽している。 この館には次々と、新しい人が入ってくる。 新たに入ってくる人の多くは、正気を失っているか、失いかかっているかである。 本当に、正気を失ってしまうと、気心が知れなくなってしまう。

正気を失った人々、失いかかっている人々が、集まっていると、容易に話し合うことができない。 仮に、正気を失った者同士が、折衝し遭っても、正気の沙汰ではない喧嘩、騒動に発展するか、物別れに終わるのが普通である。 未だ、正気を保っている私は、「危うきに近寄らぬ」方針を守っているから、始めっから「付き合い」なんぞという厄介なことに関わらない。

正気を保つ方法は、もちろん、正気を失った者とは付き合わないことであるが、その他に、独りで遊ぶという方法もある。 自分の好きなことを、好きな時に好きな場所で行う、という方法である。 これは楽しい。 この方法をとる内に、やっている事に上達してくるから、ますます好きになる。 「好きこそものの上手なれ」というあれである。

好きなことに集中していると、他の事や他人の事に関わる雑事には、関心が行かなるとともに、気も晴れるし、気が違うようなことも無くなる。 従って、他人の中に話が判る遊び相手が居るとしたら、その多くは「好きな事」を共有する友達である。

「気」の中心は「正気」であるが、この正気を巡っていろいろな事象が起こる。
正気の一番の友は、もちろん「本気」である。 この本気がグレると、嫌気が指したり、気が違ったり、狂ったりもするし、気持ちが悪くなることもあれば、悪気に変わったりする。 一番イケないのは、陰気になることである。

気は、健康のもとである。 正気に心を保つことが、生気を維持せしめる。
そう言えば、昔の歌の文句にもあった。 ♪ 見よ東海の空開けて、旭日高く輝けば、天地の正気(生気)溌剌と、希望はもゆる大八洲 ♪である。 陰気はイカン。 如何に年を取ろうとも、万難を排して、正気に戻るべきである。

 

ブログ

ブログという耳慣れない言葉の語源は、「Weblog」だそうである。 これを略して(頭を取り払って:Weを無くして)、ブログと言ったらしい。 耳慣れない筈で、元々はコンピュータ用語である。 敢えて、日本語に置き換えるとすれば、私の頭の中では「随筆」になる。 「気が赴く」ままに、書きなぐる短文である。

識者たちが、ブログをどう解釈するか知らないが、それを気にしていたのでは、私が考えるブログでは無くなる。 識者は識者、私は私である。 自分第一(ミー・ファースト))とまでは言わないが、放っておいて欲しい。 あなたも、あなたで良い。 私は私で、独り立ちしているから。

要するに「お節介(介護=保護=邪魔)」はして欲しくないのである。 そうだ、その意味で、ブログの日本語訳には「独り言」が良い。 以上は、介護付き、有料老人ホームにすむ超老人の「独り言(ブログ)」。 おしまい。

 

あの味噌汁は、旨かった!

昨晩、娘にあるファミリー・レストランへ夕食のために連れて行って貰った。 その店で出された味噌汁が旨かった。 日頃、住んでいる「ホーム」の味噌汁しか食べていなかったから、「旨い」味噌汁の味を忘れていた。 施設の食事は、病院のそれと同じように、「栄養管理士」とかという偉振ったタイトルの職員が「管理」しているそうだが、「管理された味噌汁」ほど不味いものはない。

私は、この系列の老人ホームの施設を数箇所転々と、20年近くも暮らしているが、旨い食事にありついたことがない。 それにしても、あの味噌汁は塩味がよく効いていて旨かった。 娘は、「塩分は控え目にすべきだから、味噌汁は残せ」と言ってくれたが、久しぶりの「旨いもの」を途中で、取り上げようというのは「親不孝」である。 私は、その味噌汁を「コッキリ(私の故郷の方言?=徹底的に、全部)」頂いた。 残り少ない人生(私は、実はあの有名な105歳で亡くなった「生活習慣病」の名付けの親の大先生よりも、長く生きるつもりであるが)旨い物なしでは、生きる気もしない。 それこそ、文字通り「味気ない」。

私の住む施設では、「食の幸福」を第一の理念として唱えている。 私の意見では「嘘を言うな」である。 十数年、騙され続けてきた。 もう騙されんぞ。
健康に一番良い幸福を感じる食事とは、「旨い」と思って食べる食事だと思う。 「薬有るとて、毒好む」と言うが、「酒だって、酒好きの人間には、そうだろう」、「旨けれや、死んでもいいのだから」、毒でも、程々なら許されよう。 旨い物を取り上げるのは、「酷」と言うものだ。 せめて、味噌汁ぐらいは、「塩分」有るとて、取り上げるな!

最近、ある看護師から「血糖値の見方が変わったようですよ。 従来、適正と考えていた血糖値よりも、少し高目でも良いようです」と言っているのを聞いた。 ええい、糞。 それじゃ、俺も心を入れ代えよう。 ここ数年、血糖値を自己測定し続けてきたが、毎日、幻影に悩まされ続けてきたわけだ。 私の人生の相当部分が、医者たちが設定した「誤れる基準」で、不幸だった訳だ。

旨い食事で死んでゆこう。 「旨さなくして、なんでこの世かな!」 この施設も「良い嘘」で騙すじゃないか、本施設が掲げる第一の理念は「食の幸福!」

老人ホーム生活の利点

有料介護付き老人ホーム(以下、単に老人ホームと呼ぶ)の不自由な生活にも、いくつかの利点がある。 お金を払ってお願いする「介護」は、自立者、並びに軽度の要支援者にとっては、勿論、不自由(拘束=お節介)そのものだから、「介護」は利点と数えられない。 敢えて利点を探すとすれば、老人ホームの「弱点」の裏返しがそれだといえるかもしれない。 

老人ホームに住む老人には、原則として「身元引受人(つまり、介護を依頼する保証人:通常は家族なり、親戚の者が後見する)」が背後に控えて居る。 端的に言えば、有料介護付き老人ホームとは、家族ないし後見人がお金を払って(有料で)親なり、家族や後見人が何らかの理由で持て余した人なりの介護を依頼するための施設である。

従って、「自立した健常人「又は、軽度要支援者」を受け入れること」自体が、老人ホームの趣旨に反する。 にもかかわらず、老人ホームの入居(受け入れ)の資格(?)として「自立者、要支援、要介護、相談の上認知症患者」を挙げるのが一般である(行政もそれを認めている)。

ところが皮肉なことに、ここに住む老人は「自立」していない(出来ない)のが建前になっている。  つまり、ここに住む老人たちは、大なり、小なり、瑕瑾を抱えていることになる。 従って、財産や取り立てて言えるほどの金は持っていないと想定される。 その意味で、詐欺のターゲットにはされにくい。 いわば、ここに住む老人たちには、自然の詐欺防衛線が張られている。 外部からの煩わしい詐欺的攻撃から隔離されているのである。 このことは自立者にとっては、望外の利点である。

詐欺どころか、大抵の老人ホームでは、入居者各人は「固定電話」や「スマホ」を持たず、携帯電話で日常を過ごしているから、世間の煩わしい雑事からも守られている。 世間との繋がりはテレビ、新聞、見聞ぐらいに限られるから、いわば「受け身」の繋がりである。 言い換えると、彼らはお節介(介護)はされても、入居者仲間同士の言い争い、喧嘩は別として、自ら進んで世間へのお節介(例えば、ボランテイア参加)することはない(出来ない)。

さらに、通常は、団体生活を強いられ、夜は、消灯時間があり、睡眠時間も、ある意味で、強制されている。 半ば強制的に、「健康生活」を求められているので、健康長寿を「させて貰える」利点もある。

しかも、世間(外部)へ出ても、「老人ホーム居住」という(肩書があるため)他の高齢者同様、いや以上に、公共の場(例えば、展覧会場入場、XXXの催し参加、諸XX割引、etc.)で「敬老」の恩恵を受けることが出来る(愚弄される恐れもあるが)。

物事は、見様、受け取り方で、真価が決まる。 喜びも、悲しみも、心の持ちようである。 「家に帰りたい」と嘆く老人を見聞きし、我が身の幸せを感じられるのも、老人ホーム生活の利点である。

近づく敬老の日

老人ホームは、如何に「拘束の無い」を謳おうとも、その性質上、自立者にとっては、拘束条件に満ちている。 従って、「自立した老人」、「軽度要支援老人」を受け入れる老人ホームは、彼らにとっては「自由で気楽な生活の場」とはならない。

老人ホームは、必然的に集団生活を強いる。 集団生活では、集団の決まりができる。 例えば、食事、入浴、室内清掃、消灯、etc. は、集団で行うので、勢い時間的制約が生まれる。 従って、各人が、悠々「自」適の生活を営む訳にはいかない。 

具体的には、夜や早朝の外出・散歩、気ままな娯楽、居酒屋探訪、特定時間に囚われない食事、ペット動物の飼育、などは、多くの場合、物理的にも、心理的にも、制約される。 経営管理者の側の都合、他の入居者に対する気兼ね、他の入居者からの非難・指弾、etc. が制約を生む。

自由な生活を求める身体的にも、精神的にも健康な老人には、老人ホームは勧められない。 老人ホームに入居することは、自ら進んで牢獄へ入獄するのと変わらない。 しかも、老人ホームは、昔の「養老院」の名残をとどめていて、身体的、精神的欠陥のある人達が集まりやすい。 精神的に健常な人とそうでない人達の間の「人間関係」は、営み難い。 

大抵の老人ホームは、「有料、介護付き、そして拘束のない」を謳い、行政もそれを認め(?)ているうが、他方で、自立者、要支援、要介護、相談の上認知症患者の入所を促している。 これは、「自己撞着」である。 これらの人達の混住は、元々、不可能なのである。

高齢化する社会では、高齢者の「気楽な老後の生活」を測り、促進すべきである。 さもないと、「敬老」の実がない。 口先ばかりの「敬老」は、「侮老」である。 老人ホームに入居せしめられた老人は、9月17日でも、ぬくぬくと夕涼み、日向ぼっこ、もできないではないか!

母は強し

私の遠い昔の記憶では、僅か一年ほどの差で、「少年航空兵」になり損ねた。 その頃は、「お国のために」潔く(いさぎよく)死んでゆくことが名誉と考えられていた。 遠い記憶なので、正確に何歳で、「特攻隊員」になれたのかは、良く覚えていないが、今日の選挙権取得と同じ年齢、18歳、ではなかったと思う。

子供心の教えられたのは、前線で戦死する、又は突貫の間際は、「天皇陛下万歳!と叫べ」、だった。 だが、私は、90歳近くなった今も生きている。 有り難いことに、兵隊になれなかったからだ。 人(ひと)から聞いたことだが、実際は戦地で「玉砕」する兵隊たちは、「天皇陛下万歳!」ではなくて、「お母さん!」と叫んだという。

そりゃぁ、女々しい? とんでもハップン! 一人一人の兵隊たちの心には、「母の面影」が宿っていたのだ。 今もなお、涙を誘う映画、テレビドラマ、物語は、「母物」である。 残念なことに、「親父物」は少ない。 親父は、雄々しくあらねばならない。 「俺りゃ、男だぜ」と力んで見せる「見栄」の塊が男の命だ。 今日のパワハラも、この流れを汲んでいる。

しかし、考えてみると、総じて、母の方が父よりも、世に、圧倒的に出しゃばっている。 なぜ? 「産んでくれたから?」 そうかもしれん。 男女差別廃止を叫ばれる諸賢は。この事実を如何に受け止められる?

思いつき

老人ホームには、特に大きな老人ホームには、身体はまだ健康なのに、何をも自ら進んで為すこともなく、一日中、ただ退屈そうに時を過ごしている老人が多い。 そこで、思いついた。 子供の頃、母親や兄、姉に、本を読んでもらって楽しかったことを、そう言えば、紙芝居も面白く、楽しかった。

日本にも、古来から面白い話が多い。 例えば、今昔物語集、宇治拾遺物話、伊勢物語、など、今日の老人には容易には読み難い古書に、そうした面白い話が多い。 幸い、これらの書物には、現代語に書き直した物がある。 そこで、若者たちにこれらの書物の現代語版を読んで貰い、老人を集めて聞かせるという思いつきを考えた。

 

養老国の話
ある時、ある国に、70歳を超えた老人は、役に立たないので、どこか遠国へ捨てるようにとの布告が出された。 その国の大臣の一人に70歳を超えた母が居た。 この母を捨てるに忍びず、自分の屋敷の裏庭に地下蔵を作って、匿うことにした。

その頃、隣国から、厳しい要求が為された。 二匹の全く同じように見える馬を連れてきて、どちらが親で、どちらが子かを見分けよ、と要求してきたのである。 答えられなければ、攻めると脅しを掛けてきたのである。 大臣は、暫く時間を下さい。 考えた末に、お答えします、と王に述べて帰っていった。

家に帰った大臣は、ひょっとしたら、老人ならこんな難問の答えも、聞き知っているかも知れないと思って、地下蔵に隠れていた老母にきいてみた。老母はその二匹の馬の間に「餌になる枯れ草を置いてみよ。 先に貪り食うのが、子で、それを待つのが親だ」と教えた。 王宮に帰って、王にその旨を答え、事なきを得た。

ところが、隣国は、更に難問を重ねて持ちかけてきた。 一本の木を出し、どちら側が根であるか、答えよと言うのである。 この度も、大臣は、この問題を家にもし帰って、母にきいてみた。 母が言うのには、水に浮かべるがよい。
沈む方が根じゃ。というのである。 此度もまた、この難問を答えることができた。 

隣国は、こんどこそは、答えることが出来まいと、大変難しい問題を突きつけてきた。 一匹の象を連れてきて、この象の重さを測って答えよ、という難問であった。 また、大臣は裏の地下蔵を訪れて母に尋ねた。 母は、そのような問題は昔、聞いたことがある。 象を船に載せ、船が沈んだ所に印をつけよ。
次に、象の沈んだ印のところまで、象の代わりに石を積むのじゃ。 すれば、石の重さを一つづつ測り、石の重さを合計すれば、象の重さが判る、と教えた。

そのように、隣国へ答えると、隣国は、この国は恐ろしい国じゃ。 こんな恐ろしい国を攻めれば、逆に、こちらがやられてしまう、と考えて、攻めて来なくなった。

その国の王は、何故大臣が、答えを考え出す前に、その都度。屋敷へ帰るのかを訝しんで、その理由を大臣に尋ねた。 大臣は、恐る恐る、70歳を超えた老人は遠国へ捨てるようにとの、お達しでしたが、私は、母を捨てるに忍びず、裏庭に隠しております。 その母に答えを教えて貰うために、毎回、屋敷へ帰っておったのでございます、と答えた。 

その時まで、その国は「棄老国」と呼ばれていたが、王は、以後「養老国」と国名を変えよ、と布告を出したそうです。
・・・・・・・・・・・・打聞集(うちききしゅう)

(打聞集は、下巻のみが残っており、今昔物語、宇治拾遺物語の中にある)

老人を伸ばす

いささか突飛、先走り、奇妙の感があるかも知れないが、人間の想定平均寿命が100歳にまで伸び、年金支給年齢が引き上げられ、85歳まで生命保険が加入できますと謳われる今日、現存老人の学習能力の引き上げ、老耄化年齢の引き下げを考えるのも、無駄ではあるまい。 無駄どころか、世のため、国のため、息子や娘、孫のためと言えよう。

人を殺すは、戦争ばかりじゃない、下手な悪徳医者、頑迷固陋、無知もまた、人を殺す。 老人の心身共の可能性を伸ばすのも、今日に生きる現代人の使命であると思う。 できることなら、老人、高齢者という鬱陶しい世代を消したいものである。 心身ともに健やかな先駆者を、この世に生み出したい。

私は、今年の始め1月2日に当然のことながら、昔から言う「米寿」の年齢を記録した。 昨年は、パソコン教室なるものに参加した。 同級生は4~5人いたが、そのうち4人は世間が「嘲笑う(?)ロートル」であった。 やりおるなぁ、そのまま突っ走れ。 これが私の感想だった。 

いわゆる老人(高齢者)が老耄化(ろうもう)するのは、老人自ら「年寄りだ」と自認し、世間もそれを寿ぐ(ことほぐ)からだ。 老若の差別は、滑稽だ。 つい先頃105歳まで現役を務めて、亡くなった先輩も居る。 老人が老耄化するのは、当人と周りの故である。 「孟母三遷」の故事もある。 状況が人を育てると共に、人を活かす。 いわゆる老人に「自由と機会」を与えよ。 さらば、老人も老人ではなくなる。 

事が大げさになった。 事を目前に、引き据えよう。 パソコン教室、良いではないか、麻雀教室、これも良い。 ダンス、碁、三味線、謡、生花、御めかし、なんでも良い。 当人が望むなら、それが良い。 当人の興味、趣味、そして望むらくは元気、それが寿命を伸ばし、意気を高める。 

「菊は栄える、葵は枯れる」。 趣味は栄える、無気力は枯れる。 100歳だ! 世の移り変わりを、見据えよう。

嫌悪(けんお)

誰の心の中にも「虫」が住んでいる。 「虫が好かない」、「虫唾が走る」、「虫が良い)などと言うが、あの虫である。 なかんずく、「虫が好かない」の虫は、心の中に潜む扱いの面倒な虫である。 

この虫は「生理的」なものらしく、抱えている主人(宿主)の意のままにならない。 「走ってはいけない」と抑えつけても、勝手に走ってしまうのである。 「あんまり良くしては、いけないよ」と嗜め(たしなめ)ても、勝手に「善がる(よがる)」のである。

このような虫のことを漢語では、「嫌悪」と呼んだりする。 では、その漢語の意味を辞書に依って探ってみよう。

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けん‐お〔‐ヲ〕【嫌悪】の意味
[名](スル)憎みきらうこと。強い不快感を持つこと。「不正を嫌悪する」「嫌悪感」
出典:デジタル大辞泉小学館
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辞書の説明通り、嫌悪は、「生理的」な恣意的には抗し得ないもののようだ。 要するに「嫌い」は嫌いである。 他人の容喙(ようかい)し得ざるものである。 

翻って、近頃、世間で喧しく(かまびすしく)叫ばれる「差別」のことを考えてみよう。

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差別(さべつ)とは、特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為である。 ... 国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」 としている。
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「虫」は、事物に対しても、人間に対しても作用するが、「差別」は、人間同士の問題のようである。 着物や電気器具の区別はしても、差別はしない。 「虫の好かない相手」というのは居る。 だが「虫の好かない着物やIHヒーター」を語る人は、語ること自体は不可能ではないが、こちらの世界の人ではない。 
どうやら、人間に対する「虫の在り処」は、「差別」と紙一重の違いらしい。

虫が生理的に作用するものだとすれば、生理的に「気にいらない」相手も存在し得ることになる。 では、その生理的に気に入らない相手を差別できるか?
相手が女性なり、男性なりであるときには、まず問題は少ない。 異性を好まぬ人は、少ないからだ。 大抵の人は、異性に生理的に近かずこうとする。

その相手が外(異)国人だったら、どうなる?  肌の色が違えば、どうなる?
差別問題は、「論ずるは易く、行うは難い」問題である。 欧米諸国でも、未だこの問題を解決できずに居る。 同種の人間が集まっている日本国でも、この問題は、解くに難しい問題である。 まして「虫」問題は、いつの世までも蔓延る(はびこる)問題なのである。 解決には、「虫」の知らせを待つより仕様があるまい。