鉄道大臣

夢寐のたわごと

男女差別!

すでに、私のブログ「不吉!」で、指摘したことだが、街角、百貨店内、鉄道駅構内、老人ホーム内、町中、いたるところに「AED」器が設置されている。 「AED]と判り易く、気付き易いように、目立つ形で、AED器が置かれている。 

この器械は正しくは、「AED自動体外式除細動器)」と呼ぶのだそうだが、見た目で判り易く、する配慮だと思うが、「絵入り」になっていることが多い。問題は、その「絵」だが、例外なく仰向けに倒れているのは、「男性」である。 さすが、女性の「おっぱい」を「もみもみする」のは、気が引けるのだろう。 しかし、実際になると、そうはいっておられない。 生死の境目である。 

たとえ相手が、遥々外国からおいでになったお客様の外国婦人であろうとも、いや、なおさら、「もみもみ」でおもてなしするのは、日本古来の作法であろう。それとも、オリンピックを機会に、全てのAED所載の「男性の絵」を描きなおすか?

不 吉!

街角、百貨店内、鉄道駅構内、老人ホーム内、町中、いたるところに「AED」器が設置されている。 「AED]と判り易く、気付き易いように、目立つ形で、AED器が置かれている。 この器械は正しくは、「AED自動体外式除細動器)」と呼ぶのだそうだが、見た目が、落ち着くように、かつ判り易く、容易に気付くようにする配慮だと思うが、AEDという文字の前に記号なりシンボルなりを加えて、四つの記号にしてある。

ところが、その記号も、シンボルなりも、後に続くAEDの文字に合わせたサイズにされていることが多い。 だから、遠目には、四文字に見える。 私のように、英語が少しわかって、この器械のご厄介になる恐れのある、老眼で、遠くを見づらく感じている心臓病の前科者(狭心症:手術歴あり)には、その四文字が、不吉に読める。 なんと、DEADと読めるのである。 もう死んでいるのだから、いまさらAEDは遅すぎる。

ザックリ高齢化

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ざっくり
 1 力を込めて一気に切ったり割ったりするさま。大きく切れ目を入れるさま。
2 深くえぐれたり、大きく割れたりするさま。「ざっくり(と)割れたスイカ
3 大ざっぱなさま。全体を大きくとらえるさま。おおまかに。
4 金・米・砂などを、大量に、また、無造作につかんだりすくったりするさま。
5 上着などを無造作に着るさま。
6 編み物などの、編み目や手ざわりなどが粗く厚みを感じるさま。
・・・・・・・・・・・・・・・(Goo辞書)
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平均寿命が100年に延びた。 「高齢化社会」という言葉も聞かれる。 バリアフリー、etc. と高齢者のための施策がいろいろと講じられている。 今朝のテレビ放送で、車椅子を便乗させた自動車の自動車事故が論じられていた。 運転者には、左程の死傷がおこっていないのに、車椅子に乗せられた高齢者(患者)が死ぬことが多いと言うのである。 

シートベルトが原因することが多いらしいのだが、肝心のシートベルトについての研究も、対策も講じられていない、と言うのだ。社会は、総じて、一般人のために作られている(作られてきた)。 だが、世の中は変わっている。 平均寿命が100年に延びたのである。

社会自体も、平均寿命100年に相応するように、伸ばさねばならない。 だが、相応すべき事柄が多すぎる。 一つ一つに応じていると、当然、「後追い」になる。 行政の後追い施策が多い理由が、ここにある。ならば、「ザックリ」社会そのものを、「底上げ」すべきである。 幸い、行政官連中も「老いてくる」。 老いた行政官の職業の手当てもこれで、何とかなる。 高齢者に職を与えるための「社会の底上げ」が、これからの行政の長が着眼すべきところである。

高齢者用共同食堂

外食は消費税が余分に掛かるので、高く付く。 「持ち帰り」は安いが、仮に持ち帰っても、一人住まいの体の不自由な高齢者は処置(調理)に困る。 「出来上がり総菜」も、売り手側の都合で、「一人分」の販売が少ない。 「目方売り」で買っても、「目方」の判断が難しく、つい余分(捨てる分)まで買ってしまうので、 結局、高く、不味い物を、種類少なく、食わされることになる。 

ところが、いわゆる専門家(?)達は、「少しずつ、種類を多く、食べるのが健康に良い」などと無責任なことを言っている。一人住まいの老人(男性)たち、特に体が自由にならない高齢者が、「孤独死」ならぬ「孤独飢」をするのは、目に見えている。 

彼らは、自然に死ぬよりも、進んで「死にたい」と思っているに違いない。 行政は、無料は望まないまでも、高齢者用公式共同食堂でも、設置すべきではなかろうか。 新出去定さん(山本周五郎赤ひげ診療譚)のご出馬(現)を望みたい。

 

珍説:「ネオ」サピエンス

人が死ぬと、「冷たく」なったという。 従って、人が生きている証、「熱」があること(温かいこと)らしい。 そういえば、親しみの持てる優しい人を「暖かい人」といったりする。 総じて、「煮沸状態」は別として、「温度」が適度に高い、人間の場合は適度な「体温」=「温かみのあること」が良いことだと思われる。

この広大な宇宙の中で、地球はただ一つの生き物が住む星だと思われ。 その星、つまり地球は、誕生以来50億年を通して、粘り強く、他の星(天体)との衝突、地殻変動、火山爆発、気候変化、幾度かの天変地異を潜り抜けて、地球自体はもちろん、古生代、中世代、新世代と自然変異、弱肉強食を重ね、地球上の全ての生き物を守もってきた。
地球温暖化も、そうした一連の地異天変の一つかも知れない。 

おそらく地球は寒冷化、温暖化と温度変化を繰り返して来ていると思われる。  地球の温暖化が、地異の一つであるとすれば、温暖化を恐れることは即断で、対応の仕方如何によっては、地球の温暖化は喜ぶべきことかも知れない。  現代の地球に生きる旧人類(ホモ・サピエンス)温暖化を乗り越え、変貌して、新人類(ネオ・サピエンス)が誕生するかも知れない。

すれば、「温暖化」は、良い方向に向かっていることを示している。地球温暖化は、地球が、延いては人類が良い方向に向かっていることを意味している。 問題は、対応の仕方である。 幸い、現代科学は、相当な難題にも堪え得る能力を示している。 これは、楽観的過ぎる考え方、見方であろうか?

地球が温暖化してゆくと、旧(?)人間は「死に絶え」て変貌し、別の生物、または、進化した新しい形の「新人類」が生まれるかも知れない。 ネオ・サピエンスである。 物事はネガテイブに考えるのではなくて、ポジテイブに考えよ、という主張があるが、我々も、そうしよう。 科学の進歩に期待して、ネオ・サピエンスの誕生を歓迎しよう。

履物(はきもの)

私は、今年の一月、90歳になった。 いわゆる卒寿である。 卒寿つまり、「寿命」を卒業したのである。 長い一生であった。 

長い間、履物を履いてきた。 9人兄弟姉妹の末っ子に生まれたが、私が、自分に目覚めた年ごろには、長男が家庭の実権を握っていた。父親は、大工であったが、長男は、父の職業を継がずに、「履物屋」を営んでいた。 近所の人たちは、「下駄屋さん」と呼びならわしていたが、当時は、「下駄」を扱う職業は、賤業だと思われていたので、その印象を避けるため、体よく「履物商」と称していた。

にもかかわらず、私は、「靴」で育った。 店頭に並ぶ商品、つまり下駄、草履は、毎日、目にしていたが、学校へ行くにも、近所の悪童たちと遊ぶ時も、いつも「靴」、つまりズックを履いていた。 それで不自然は感じなかったし、当然だと思っていた。

学校、勤め、日本はもちろんのこと、ヨーロッパ、中東、アジアの諸外国へも出回ったが、いつも「靴」を履いていた。 ところが、ここ十年ほどの間、自分の足に合った靴に恵まれなくて苦労するようになった。 何足も靴を買ってみた。 だが、ダメなのである。 

足に靴を合わせる専門家がいると聞いて、その専門家に、自分の足用の「靴」を見繕って貰ったこともあった。 足に靴が合わないのは、靴のサイズを間違えているからではないかと思って、足の幅、甲の高さ、足の長さ、材料の硬さ(柔軟性)、など、変えてみたが、ダメだった。

ところが、ふと思いついて、「草履」に変えてみた。 もちろん、足の親指、小指を守るために、「足袋」を着用したが、これが良かった。草履なら、苦痛を感じないで、歩くことが出来る!  「兄貴! あなたはもう死んじまったが、末の弟は、あなたの遺志を継いで、草履で頑張る!」。 

日本人には「草履」、「下駄」、そして「足袋」、「脚絆」も向いている? 西洋風も良いが、日本古来の物にも、良いものがある! 寿命、果てなんとするに至って、先祖返りとは! ちなみに、私は、年来の持病(?)、足のふくらはぎの浮腫み(むくみ)を抑えるために脚絆(レッグウオーマー)を着用している。

バリアフリー

バリアフリー? 高齢者の目で見ると、世間は、バリアー(障害)だらけである。 高齢者を「労わる」というが、高齢者はあらゆるところで、障害に見舞われている。 昔から残っている障害もあれば、新しく作った障害も数知れない。 精神的障害もあれば、物理的障害も、数えきれないほどある。 あまり多いので、列挙できない程である。

あえて政治、行政に関わる普遍的障害の1~2例挙げるなら、その代表的なものに地下鉄、鉄道の高架駅がある。 街角のあちらこちらに地下鉄や高架鉄道線の乗場への入口が人待ち顔で設けられているが、一方で、この入口が、便利な「地下鉄や電車に乗りたい」と望む足腰の弱い高齢者の気持ちをそそる反面、他方で、電車には乗らせない仕組みになっている。 

改札口やプラット・フォームまで行き着くまでの階段がバリアー(障害)になっているのである。 元々、高々1センチ以下の高さのステップすら障害なのだから、20~30㎝もある連続ステップ(階段)がバリアーでなかろう筈が無い。 仮に、エスカレーターか、エレベーターが準備されているにしても、そのエスカレーターも、エレベーターも、目の前にあるわけではない。 エスカレーター、エレベーターを備えた入口を探し回る高齢者の苦労を考えてみろ!

そうしたバリアーの昔からの例が、神社、仏閣、特に神社の参詣路である。 ほとんどの場合、入口には、長い階段が連なっており、古い神社の中には、険しい山岳の中にあるところまである。 信心の気持ちがあるのなら、そのような障害は問題ではなかろうというのは昔の考え方で、今風なら、関西地方に存在するある寺のようにエスカレーターを設置して、信者を迎える準備が欲しいのである。

私が卒業した某大学などは、「正門」は厳めしく堂々とした石作り(金はだれが払った?)で、一段が一尺以上もある2段のステップがバリアーになっている。 これでは、卒業後数十年、ヨボヨボになり果てた高齢卒業生が何年か振りで母校を訪れても、こそこそと「裏門」から入らねばならない。 

「急場のこと」と言う上手くも、狡い表現がある。 突然に言い出した高齢者保護、優遇、バリアーフリーなので、これに対応する為の準備、コスト、etc. が追いつかないと言うのなら、元々、世界の先進諸国へ向けての恰好付に高齢者保護、優遇、バリアーフリーを言い出した政府・行政に対して、他のいろいろな無駄使い、例えば、べらぼうに高い、数多い議員の歳費の節減、彼らが摘み食いする数々の冗費の割愛を励行して、「追いつけ!」と叱咤せざるをえない。

街のガードレールの無い凸凹歩道を見よ。 ルール違反で狭い電信柱だらけの道路を突っ走る自動車、歩道を走る自転車、今日この頃は見かけることの少ない一休みするための広い公園やベンチ、少ない(多目的)公衆便所、蓋の欠けたマンホールや凸凹のカバー付き暗渠、屋根(日・雨除け)のない路線バス停留所とスレスレに走る自動車、列車の来る線路へ剥き出しの盲人用プチ・プチ・バリアーを地面に張り付けたプラット・フォーム、云々、云々。 

これでは高齢者のためのバリアーフリーは、夢のまた夢。 掛け声ばかりが、空しく響く。 度台、準備が出来ていない。 他方、高齢者の数は、増え続ける。 これでは、褌(ふんどし)履かずに、ズボンを履いているようなものである(失礼!)。

老いの感懐

この地球に生まれて、90年経った。 もうぼちぼち、地球から、おさらば、するか!

地球上に約70億人の人間が住んでいるといわれる。 この人間について、基準を求めるとなると、これは難しい。 でも、基準は設けられている。 例えば、人間の「体温」は、36.0©~37.0©となっている。 

この基準をベースにして、毎日を一喜一憂している。 「今日は、平温だった。 昨日は熱が高かった。 云々」。  なぜ、そんなに騒ぐ。 比較の相手は、幽霊だよ。 一人一人の人間(個人)の体温は、その人その人によって違うはずだよ。 それが民主主義でいう尊重の対象とすべき「個人差」と言うやつだ。 

70億人の人間の一人一人は違う個人の筈だ。 平熱36.0©~37.0©なんて個人は、70億人の中に一人もいないんだよ。 そう相手は、統計が作りだした個人にあらざる「平均」と言う化物だ。 よーく、考えてごらん、あなたは現実世界に生きている本物の個人だよ、その本物と幽霊とを比べて、どうして一喜一憂する。 

遥か地球の彼方から見ていると、おかしいよ。 あなたは、独りで、幽霊とダンスしながら、踊り狂っているんだから!

あなた Ⅱ

医者は、データの基づいて診断する。 データは、複数の事例に基づいて作られる。 複数は、あなたではない。 あなたは、あなたである。 いくら他人を積み重ねても、あなたにはならない。

不調は、あなたが感じている。 他人の感じではない。 いくら他人の感じを重ねても、あなたの感じは判らない。 他人の不調に対応しても、あなたの不調は治らない。

医者は、積み重ねたデータに対応するが、あなたには、対応していない。 医者は、あなたの不調を多数の他人の不調と比較して診療する。 比較を誤れば、診療も誤る。 

医者は、例外を認めない。 例外、想定外を認めれば、診療の根拠を失う。 あなたは例外かも知れない。 すれば、医者で無いあなたは、諦めるより仕様がない。

あなた

全て世の中に流通するものは、「一般化」されて流通する。  さもなければ、「流通」自体が困難になる。  世の中は複数の人間が社会を形成して成り立っている。  これらの「諸」人間の間に「通じる」ものは、誰にも当てはまるようになっている。

当てはまらねば、通じない。 従って、あなた個人に特有の物は、あな
た個人にのみ有効であり、あなた個人にのみ意味のある物である。  他人を期待したり、他人に依頼してはいけない。  

あなたを救うものはあなた自身であり、あなたを救えるものも、あなた自身である。  世の中で、あなたは、とどのつまりは、独りぼっちなのである。  親子、兄弟姉妹は、他人のはじまりという。