鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

シャッ! 国賊は心の中に居た!

春高楼の花の宴

めぐる盃かげさして

千代の松が枝わけいでし

昔のひかりいまいずこ

 

♪ むかしのひかりいまいずこ ♪  30数階建ての高層マンシオンに住んでいて、♪高楼の華の宴♪が想像できるか?  春ならずとも、年中、高楼の宴ではないか! 土井晩翠も、かかる時代になろうとは、夢にも、おもわなかったであろう。

 

私は、二条城の辺り、御所から数百メートル離れたところで、生を受け育った。

大阪城、も名古屋城へも行ったことがある。 いま、小田原城から、指呼の間にある土地(電車で数十分)に住んでいる。 幸いなるかな、春、高楼の宴(うたげ)の有様も、容易に想像できる。

 

荒城の有様に常々、心を痛めている。 正に、♪ 昔のひかり、いまいずこ ♪である。 維新まで、この日本国には、数十邦(藩)あった。 国持大名はもとより、城持大名の数は、数十を下らない。 然るに、宴(うたげ)片鱗も残っていない。 華族が良いというのではない。 都道府県の、税金の余りを使って、隣国の金持ち国に売り払われる前に、かかる国(民の)宝を、隅々まで保存できないものか?

 

姫路城の雑学的な話はまだまだあるが、その中でも個人的に衝撃的だったのは姫路城が売られていたという話だ。 これは明治が到来し、廃藩置県が全国で施行された際に起きた出来事の1つで、新しい世の時代には俗世間において無用の長物として、城郭は廃棄の対象として扱われていく。莫大な維持費を伴うため、そんなものに貴重な予算を叩くことは出来ないとした考えた広まったことで、こうした動きに流されていき、その中には姫路城のも例外なく組み込まれていた。 廃棄するため、まずは城そのものをオークションにかけて競売にかけると、当時の値段で『23円50銭』で落札された。これが大体いくらなのか現代のお金で当てはめてみると、およそ『100万円』で姫路城が売り払われていたという。 なんと恐ろしい値段だ、もし現代ならあれだけの広大な土地付きで城郭を購入できるといわれたら、喜んで購入したいという人が続出するかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・(ウイキペデイア) 

茶飲み友達

一言で「茶飲み友達」と言うが、実のところ、本当の意味の茶飲み友達は、探すのに苦労する。 格好の茶飲み友達が居ないのである。 「茶を飲む」だけなら、友達はいる。 飲んで、話して、の「話して」の相手が居ないのである。

 

心を許して、話し合うには、「許す」気持ちが必要である。 迂闊な相手には、そう簡単には、心が許せない。 こちらの気持ちが狭いのか、あちらに隙きがないのか、警戒ばかりが先に立って、結局「許せない」ことになる。

 

親友は、心友ともかくが、意味が少し違うようだ。 「茶飲み」じゃなくて、「酒飲み」友達なら、いくらも入るかもしれないが、本当の「心の」友は、仮にいたにしても、人生に数人にとどまるだろう。 いや、独りも居ないこともあるかもしれない。

 

心友は、双方が「そっ啄同時で」心を開く関係じゃなくてはならない。 双方が心を開くのは、「一方が開けば、すれば他方も開く」という駆け引きの「開き」じゃない。 「卒啄(そったく)同時」の心の開き合いだ。 

 

本当の茶飲み友達の「売り物」はない。 買おうとしても、買えないのだ。 茶飲み友達は、売り物じゃなくて、「買い物」だ。 掘り出し物があれば、その時が買うチャンス。 滅多にない「掘り出し物」だから。

知ったか振り

「人を貶すな。 ことを責めよ」。

  

「馬鹿野郎、なんてえことをしやがるんだ。 このおちょこちょい。 てめぇ、なんか死んじまぇ。」

 

「それは、いけません。 こうするんですよ。」

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

物の弾みということも有るんですよ。 つい、言っちまうんですなぁ。 なか、なか、そう静かにはやれませんがな。

栄誉

同じ呼称で、呼ばれている。 刑務所の囚人が、出獄を許されて娑婆へでるときに、迎えてくれる人を「身元引受人」と呼ぶ。

 

この老人ホームに入れられている我々の入居費、家賃、を払い、(おそらく、死後の死骸引取人)も、「身元引受人」と呼ばれている!

生前他界

80歳代前半が、生前の目安?

 

高齢者が、「不用意に転倒して、骨折し、その結果寝たきりにならない為には」、云々。 こうした高齢者向けの生活助言が、写真入りで、動画入りで、丹念に、多くの機会に、何回と無く、手を変え、品を変え、述べられてきている。 しかし、いつも例外なく、相手は、70歳前後までの年寄りに向けられている。

生命保険の被契約者保険者募集も、「80歳でも入れます」と謳っても、85歳がギリギリ、それより年上は、「お呼びじゃない」。 86歳越えたら、寝たきりが当前。 起きて動いている方が「変」。 86歳以上は、他界する方が自然。

 

 

促される保健注意

 

テレビ放送番組、雑誌記事、書物などで、高齢者に向けられる健康上の注意は、殆どが70歳前後の人たちを中心に向けられているので、80代以上の人たちには与えるべき健康上の注意が無いかの如く感じられる。 80歳を越えたら、充分に生きてしまったのだから、その後の人生は、生きていること自体が稀有として扱われる有様である。 若者よ。 還暦とは、良く言ったものだ。 

 

 

生きる屍

 

居ても居なくても、日本人口の頭数(あたまかず)には入るようで、入らない。 場所塞ぎだが、飯だけは食う。 何が為に、金がいる:消費税、食費、生活費、その他諸掛費は入る。 家賃も取られる。

 

 

仙人

 

寿命100歳は、空念仏だ。 施策は、すべて、「高齢者介護」に向けられるが、介護される高齢者とは案外に若者。 90歳を越えたら、他界に住む仙人、この世の人ではない。

  

食事と体調

この老人ホームの食事をここ数ヶ月、食べていない。 基本的に自炊している。 自炊だから、食材を生理的配慮を加えて選ぶなどの意識的処置はしていない。 ところが、昨日の(病院)代謝内分内科の担当医の診断結果は、予想外に良かった。

 

血糖値、血圧、コレステロール値、etc.が満点だというのである。 何故、このように体調が良いのか、理由がわからない。 他人のように風邪も引くし、腹も壊す。 日常の体調は、通常のように壊しているのに、基本的体調が極めて良好と診断された。 

 

適度の外出(買物)は別として、運動も、際立つほどはしていない。 自己流のスクワットを毎朝、毎夜、励行はしているが・それ以外の健康法は行っていない。 老人の一人暮らしの必要から、衣類の一部の洗濯も行う。 パソコンに依るブログの作成(執筆)も行う。 他の人と同じように、テレビも鑑賞する。 自分で感じる限り、健康の元は、主として、「食物」である。 思い付く儘に、主として食べているものを列挙してみよう。

 

常用食材

大蒜(にんにく、随時、随量)、豆類(ピーナッツ、くるみ、そら豆、アーモンド、etc.)、紅生姜

アボカド(冷凍)、亜麻仁油、荏胡麻油、オリーブ油、胡麻油、キャベツ(細切り:生)、玉ねぎ(薄切り)、人参、長芋、牛蒡、玉蜀黍、納豆、大根、豆腐、干し海苔、スライス・チーズ、牛肉、味噌(味噌汁)、餃子、たまご、石窯ぱん、赤ぶどう酒、ごはん、オクラ、海藻(ひじき、ほか)

稀に、生魚の刺身

 

常用サプリメント

ビオフェルミン錠、河内茶麹、ユーグレナブルーベリーアイ養命酒

 

睡眠

夜中、約2時間ごとに、小用のために起きる。 夜、11時頃就寝、朝朝4~5時に起床。 随時昼寝。 概して、睡眠不足。

固定観念(思い込み)

 

固定観念」は、いろいろな弊害を生む。 似たような言葉で「思い込み」も、誤解を生みやすい。 この2つの言葉は、殆どおなじ意味に使われることもあるので、今一度、意味を確認して、今後の使い方を正していきたい。 

固定観念

固定観念(こていかんねん)は、固着観念(こちゃくかんねん)とも云い、心理学の用語で、が何かの考え観念を持つとき、その考えが明らかに過ちであるか、おかしい場合で、他の人が説明や説得を行っても、あるいは状況が変わって、おかしさが明らかになっても、当人がその考えを訂正することのないような観念

・・・・・・・・・・出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia

 

思い込み(おもいこみ)とは、深く信じこむこと。 また、固く心に決めること。 思い込みをする人は、ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じ、自分が正しいことを言うために、常識道徳前例先入観固定観念などを根拠にすることがある。 しかし、こうした根拠が他者と全く共有できないものである場合も珍しくなく、合理的な説得をしても信じてもらえない。

・・・・・・・・・・・・(ウイキペデイア辞書)

 

思い込みをすることが個人的な問題であることもあるが、集団的な思い込みというものもある。哲学者フランシス・ベーコンが掲げた4つのイドラは、抜きがたい錯覚偏見という意味で、思い込みの一種であろう。 思い込みは、頑固であるまたは邪推深い、猜疑心旺盛さらには精神障害などと、悪い意味で使われることが多いが、目標達成の原動力にもなる。 周囲には無理だと言われながら、スポーツ選手プロデビューを果たしたり、無謀と言われながら選挙への立候補を重ねて、ついに当選し、政治家デビューを果たすとき、往々にして思い込みが功を奏したのである。

副次注:イドラ〔偶像の意〕 F =ベーコンの用語。実在の正しい把握を妨げ、無知と偏見の原因となる要因。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

上記の2つの定義を読めば明らかなように、どちらも執着の対象として、観念の種類を問ってはいない。 どのような観念であろうと、兎に角、一つの観念に「執着する」ことを「固定」と言っている。 固定される観念の具体例を挙げれば、例えば「老人」とか、「若者」がその例である。 

 

誰もが、老人は、「斯く斯く然々の特徴を持つ」と思い込んでいる。 こうした観念に先にあると、「老人らしい、老人らしからぬ」と老人を見る見方(型)が決まってくることになる。 そうなってくると、見方が先に立って、全ての老人をその型にはめ込もうとする傾向が生まれる。 型が先にできて、例外の老人を認めなく成ってしまう。

 

このことは、「若者」についても当てはまる。 中4年生の藤井さんは、中学生だから子供である。 子供が、将棋の玄人の大人と「将棋の勝負」をして勝てる筈がない。 子供は、大人と将棋を挿せば負ける。 これが「固定観念」つまり、「型」である。

 

でも、藤井さんは、続けて、何段もの相手の大人に勝負して勝ち続けた。 こうした例外は「天才」である。 天才は、「固定型」から外れる。 そこで、天才を「別格」として祭り上げる。 祭り上げれば、後の処置は簡単である。 天才は、そのままにして置き、崇めるだけで、触らなければ、良いのである。

 

世間は、普通人の集団である。 固定型から外れる人間は、滅多にいない。 幸い俺は、天才ではない。 世間は、天才を「天才」として隔離する。 天才は「型に嵌らない奴(型破りの奴)」として、みんなで、持て囃すか、それとも弾き出すかする。 斯くて、仲間外れにされる天才も、型破りの変わり者も、いずれにしても、孤独である。

 

固定した考え方に嵌められると怖い。 「なぁ、なあ」、「皆仲良く」、「波風立てるなよ」。 世間は、「呉越同舟」、「一人で騒ぐなよ」、「騒げば、船が引っくり返る」、「それじゃ、溺れる奴も出るじゃないか」、「民衆主義とは、そんなものさ」。 「民主主義」なんて、学者さんの夢物語か、嘘で固めた政治家の戯言。

   

固定観念は、コンファタブルである。 一度、固定観念を持てば、後は、それで、万事とはいえなくとも、多くの事柄が捌ける(さばける)。 固定観念で、考える努力を節約することが出来る。 しかも、誰もが固定観念はきょうゆうできるから、(簡単に)他人を説伏し、仲間、支援者も増やせる。

 

固定観念を額に入れ、長い期間に渡って、誰もが活用できるようにしたものが、故事、諺、箴言、格言である。 埃を叩けば、何度でも使うことが出来るし、便利で、説得力を備えている。 部屋の中で読んだ格言でも、外部の人を走らせることができる。 

 

固定観念は、自分が作ってものとは限らない。 他所の人、昔の人、文学者、歴史学者、科学者、だれか他の人が考え植え付けた固定居観念も、使用料を払わずに融通して貰え、使うことが出来る。