鉄道大臣

夢寐のたわごと

自由の喜び

私が生まれた地方の方言で言えば、どちらかといえば、私は「堅い」と思う。 決めた約束は守る。 決められたルールには従う。 90歳になるこの年まで、原則として、堅く生きてきた。 だが、このような生活を続けていると、だんだん気が小さくなってくる。  一寸した違反も、気が咎めるようになる(そこにスリルがある)。

そこで、「原則として」が活きてくる。 原則を破ると、ささやかな「心のおののき」を感じ、「隠れた」自由の喜びに、胸がときめく。 自由は、拘束に対するもので、拘束が無ければ、自由は感じない。 大きく言えば、日本の歴史のようなもので、西洋の国から、「フリーダム」という言葉と観念を移入した当座の日本人は、キョトンとするばかりで、何のことやら、サッパリわからなかったと思う。 

ところが、福沢諭吉という世話焼き者が出現して、仏教から「自由」という言葉を盗み取り、「無碍」の観念を思い出させるようになってから、日本人は「自由の有難さ」を賞味し始めた。 

翻って、先に90歳云々と自己紹介したように、私は、老人ホームに住んでいる。 老人ホームは、一言で(今日、流行りの言葉なら、ザックリと言えば)、どちら様のご家庭様でも、扱いに困った「(ボケたお父様やお母様、など)厄介者」を、多くの場合、有料で介護(監視)付きで預かる場所(舘:やかた)である。 言い換えると、人間用レント=コイン・ボックス(昔なら、もっと単刀直入に「姥捨て山」と呼んだ)である。

そうした老人ホームは、わが2000年の歴史を誇る日の本の国のような長年に渡って自由のなき拘束の「館(やかた)」である。 この館の入居者の大半は、下手に自由を与えると、行き方知れずの街の徘徊人になってしまう恐れがある。 ここでは、「原則として(これは、私にとっては怖いルールの代弁者)、舘(やかた)の出入りは、禁じられている」。 まるで、旧日本帝国陸海軍のように、ここでは、朝何時起床、昼何時飯、夕何時飯、夜何時消灯就寝、と細かいルールが定められているのである。 

この厄介者の館に、ご厄介になっている私にとっては、ルール破りが、隠微な喜びの元になっている。 朝は、勝手に起きる、朝昼夕飯は自儘な時間に食う、お八つも自前で調達する、たばこは、健康に害があるので控えるにしても、適度の酒は百薬の長として嗜む。 人目(職員の目)を憚りながら、(主として、就寝前に)痛飲する。 夕飯(と若干の酒)を外部のレストランで喫し、門限を過ぎて帰ってくるのは、隠微中の隠微の喜び。 これぞ、人生を堅く過ごしてきた小生にとっては、最高の喜びであると共に、死ぬ前の「やっとの叶い」。 自由万歳! ただ、惜しむらくは、金が無い。

教育後進国

私は恵まれていた。 北欧の数国(フィンランドスウェーデン、など)では、高等教育まで無料で受けられると聞いている。 日本では、これは貧乏人には無理な話だ。 私の生まれた家は、貧しくはなかったが、富裕とは呼べない小売商の家だった。 おまけに、9人兄弟姉妹の末っ子に生まれた。 中学校へすら行けなかったが、尋常小学校の高等科(2年制)を卒業した後、某地方の日本帝国陸軍造兵廠へ軍属として勤めることになった。 

ところが、終戦(敗戦)の結果、奇しき運命の展開が起こり、主にアメリカ人恩恵者達の援助を受けて、大学、大学院までの高等教育を授けられ、恰好ばかりだが名誉博士号まで、授けられた。

教育先進国、例えば、フィンランドでは、こうした教育を誰もが国の制度で恵まれるようになっている。 身の丈に合わせて、英語の試験を受けねばならぬ日本の教育制度では、考えられない「幸運」だと言えよう。 私事だが、私の場合、数人のアメリカ人恩恵者から支援は受けたものの、高等教育の大部分は日本の国内で受けている。 

思い起こせば、アメリカ人恩恵者達は、私を助けて呉れはしたものの、彼らの支援は「私の自発性」を損なうものではなかった。 むしろ、私の自発性、自律性を引き出す体(てい)のものであった。 

若い頃、関西の故郷から関東へ独りでやってきた私は、青雲の志に燃えていた。 ただ、機会には恵まれてはいなかった。 最初に、支援して呉れたアメリカ人老婦人は、機会と資金を私に与えて呉れた。 

金と機会を貰った後は、私は自由であった。 戦後の混乱した世相ではあったが、彼女は私のような日本人の若者を日本の某有名大学のアメリカ人学科長へ私を紹介して、入学面接の機会を与えて呉れた。 お陰で、私は、受験競争は経験しなかったばかりか、 このアメリカ人老婦人は、私に、「自分が独りで励む」機会を与えて呉れたので、従って、私には、誰とも「競う」必要はなかった。

隣の国、韓国もそうだそうだが、日本においても、若者たちは、高校、大学入学試験なるムダな活動に、神経をすり減らしているばかりか、競争という「仲間割れ(嫉視・羨望)」、「弱肉強食」の習慣に伸びるはずの能力を「矯め」、「砕いて」いる。  

競争は、人を励ますどころか、人を「争い」と「勝利の狂喜」、「敗北の悲嘆」へ導く。 競争は、時に戦争にまで発展し、国家間、民族間、種族間の「恨み」を生み、「殺戮」を招き、延いては、人類の不幸、悲
哀を生む。 

スポーツの世界ですら、フエアプレイの精神、スポーツマンシップが、必ずしも、現実にはあてはまらないことが、先の世界ラグビー戦で示された。 ラグビー発祥の国で、フエアプレイを唱える英国のチームが、旧属国の黒人のチームに敗れたため第二位になったが、英国チームの選手は、表彰台で「銀メダル」を首に掛けるのを拒否したと聞いている。 

勝敗を競う事が当然である筈のスポーツの世界でも、勝負は、恨み、妬み、口惜しさ、他人を蹴落す気持ちなど、「争いの種」を残すのである。 まして、人生の入り口である高校・大学入学における競争試験などは、論外である。

競争が起こるのは、資源が限られているからである。 他方、思想、知識、情報、才能、技芸、に「限度」があるはずが無いが、富裕な者の子弟のみに高等教育が与えられるのは、教育に「限度」を設けることに他ならない。 「限度」は拘束である。 拘束は、自由な知能の発達を阻害する。 

教育制度が、先進的であるためには、教育が「自由」に与えられねばならない。 言い換えれば、誰でもが、望む限り高等を含めて、どのような教育でも受けられる制度を整えて初めて、先進的だといえる。 その意味で、高等教育(高校、大学、大学院)へ進学するための「競争試験」がある日本の教育制度は、「遅れている」と言わざるを得ないし、戦争を煽る野蛮な制度である。

自己ベスト

自己ベスト(じこベスト)
スポーツ選手等が過去になした個人記録のうち最も優れたもの。
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

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スポーツ界の言葉(表現)だそうだが、良い言葉(表現)だ。 前向きの「ひたむき」な感じがする。 この言葉(表現)は、スポーツ界以外でも使える。 スポーツは、優劣を競う勝負の世界だのに、この言葉は他の人たちとの「優劣」を争うことを前提にしていない。 良い言葉だ。

もっとも、世間の合意がなければ、如何に私がこの言葉(表現)を褒めそやそうとも、それだけの事である。

勝負を争うと、勝者の側に残酷な優越感、敗者の側に惨めな敗北感が残る。 そして、この優越感が、いわれのない強者の暴力に繋がる。 自己ベストは、他の人の存在を予想していない。 自分が相手である。

それも、以前の自分である。 前へ、前へ。 後ろはもちろん、横も見ない。 正に、前と脚下のみを見て進むのである。

勝負(しょうぶ)

きそう【競う】
互いに負けまい、勝とうとして張り合う。競争する。 「技わざを-・う」 「人々は-・ってその本を買った」 「 - ・うて路を遮り候はば思う程太刀打して/太平記。 

大辞林 第三版
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保有率の高い国は、アメリカ合衆国。 アメリカは、間違いなく保有率が、そして銃による殺人事件が世界第一位だ。  他にも、 国民の銃保有率の高い国がある。 スイスがそうだ。 しかし、この国では銃犯罪が、極めて少ない。 他の銃犯罪の少ない国は?  日本だ。 日本の銃規制は、世界でも稀なほど厳しい。 

しかし、「銃撃戦」を楽しむテレビ・ゲームを作り出し、売り出し、現代でもそのゲーム販売数が世界第一の国は?  これも、日本です。

勝負を競う事は、全ての悪行の原因です。 その根本的理由は、勝負が、「人」と「人」の争いだからです。 勝てば官軍」という、故事があります。 誰もが、「勝つ官軍の側」に立とうとします。 負けることは「損」だからです。 「勝つ」意識は「負ける意識」との間には格段の相違があります。 格段という訳は、人と人が争うことは、「人格的価値」に関わる「人間としての価値・尊厳」にまで事が及ぶからです。

勝負はいけません。 勝負によって、人間としての価値に決着をつけようとする姿勢がいけないのです。 勝負自体は、弱肉強食の世界に生きる人間を含めた動物の世界では、本能的なことであり当然のことです。 従って、勝負行為自体に、事の是非を擦り付けるのは、いわば、万物の霊長としての人間の大失態なのです。 

万物の霊長であるからには、「勝負」を人間発展の手掛かりに磨き上げる必要があります。  問題は、勝負の「基準」にあると思います。

スイス国の民兵が、銃発射の腕前を「的への的中率」で測っているように、我々も勝敗の基準を他の人間ではなくて、「第三者的」なところに据えればよいのです。 人と人との争いよ、さようなら!

ひいき(贔屓)

私は、以前から不思議に思っているのだが、人間には好悪の感情があるから自分の好きなものを贔屓にするのは当然であるのに、そのことを責める人は多いことである。 例えば、誰でも自分が所属する国や自分の故郷を贔屓にする。 愛国心愛郷心である。 愛国心を持つことは、悪いことではない。 

ところが、国際的なスポーツ大会になると、熱狂的に誰もが自国を代表するチームを応援する。 そこまでは良い。 その先が良くない。 それぞれの国のファン同士が、場外で乱闘騒ぎを起こすことがある。 まるで戦争である。 ところが、戦争反対を唱える人は多い。 人間の社会は一体どうなっているのか?

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贔屓(ひいき)とは、自分の気に入った者に対して肩入れし、優遇することである。贔屓をしてくれる人のことを贔屓筋(ひいきすじ)などと呼んだ。

江戸時代から明治にかけて町人文化が花開いた時期には、富裕な町人などが、気に入った相撲取りや歌舞伎役者などのパトロン(後援者)になり、物心共に支援する慣行が見られた。いわゆるタニマチ文化であり、形を変えながら現代も生き残っている。 相撲のタニマチの場合は、力士や年寄個人に限らず相撲部屋に対するひいき・後援者も存在する。 スケールは大きく違うが、いわゆるファンと呼ばれる人々も似たような心性を持っている場合がある。

タニマチ(谷町)とは相撲界の隠語で、ひいきにしてくれる客、または後援してくれる人、無償スポンサーのこと。 現在では相撲界以外に野球界、プロレス界などの他のスポーツ、また歌舞伎界や演歌界を中心に芸能界でも幅広く使われる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ウイキペディア)
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人間は、平和でおとなしいい動物であると信じたい。 弱肉強食など、論外である。 ところが、世界の各地で、今でも戦争が起こされ、女・子供、障碍者、高齢者など、弱者が被害を被っている。 

某強大国の大統領などは、「自国民ファースト(裏を返せば、他国民はどうでもよい、犠牲になってもよい)」などと、声高らかに世界に宣言している。これでは、世界全体が「独裁者」の抑えられているようなものである。

地球上の人間社会は、諸動物を抑えたまま、まだ永続する(?)と思うが、仮に、我々自身は、このような独裁的指導者の下の不条理に耐え抜くにしても、我々の子孫はどうなるのか? 向後も、はるか宇宙から、エイリアンが地球征服に降って沸いてこない限り、この我々の地球はどうなるのか? 奴のやり方は「贔屓の引き倒し」だ!

以上のことを、お節介ながら子孫のために、日頃不思議に感じている。

仲間(なかま) (競争意識)

 

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なかま【仲間】
歴史的には,江戸時代における商工業者が互いの利益を守るために結成した同業組合のことをいう。 その中で幕府や藩の公許を得ていたものは〈株仲間〉と呼ばれた。 この仲間メンバーの人数は限定されていたので,それへの加入権は株として譲渡・売買された。 仲間は規約・役員を定め,寄合をもち,公儀への金品の上納や人的奉仕と引換えに,営業上の保護と独占特権が与えられた。 また生産や価格の相互規制を行うとともに,いっしょに行楽や参詣に出かけるなど,今日の同業者団体と変わらぬことを実施している。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版の解説

なかま【仲間】
① ある物事を一緒になってする者。 「 -に入る」 「 -を裏切る」 「遊び-」
② 同じ種類に属するもの。同類。 「鯨は哺乳類の-であって、魚の-ではない」
③ 近世、商工業者が結成した同業組合。 → 株仲間

出典 三省堂大辞林 第三版の解説
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上記の解説、および定義によると、 「仲間」は、同郷の人々の集団、同窓の人々の集団(同窓会)、同じ国の人々などにも当てはまります。 そうして、その集団のメンバーであるという意識から、愛郷心、愛校心、愛国心が生まれてくると思います。

翻って、「仲間外れ」という言葉もあるように、仲間意識は、「排他的」です。 ところが、勝負事を集団で行うと、敵と味方に分かれますから、この排他的な仲間意識を煽り(あおり)立て、競争意識を強める(高める)ことができます。 この煽り立ての道具(手段)として、応援、喝采、囃子音、歌などが、よく用いられます。 こうした手段が加えられると、競争意識(感情)は、ますます昂められます。 先の戦争における「軍歌」、「行進曲」、「軍楽」、「愛国歌謡」が正さに、そうでした。

競争意識に支えられた仲間意識は、排他的な敵・味方の意識を際立たせ、延いては、敵を「憎む」気持ち、味方に「共感」する意識を生み出します。 この競争意識が差別意識と混合したらしい出来事が最近の世界ラグビー戦で見かけられました。 ご承知のように、第二位はイギリスのチームでした。 このラグビー発祥のスポーツマンシップを唱える国の白人のイギリス人のチームが、旧属国の黒人の国のチームに負けた所為でしょうか、表彰台へ「銀メダル」を首にかけて登壇することを拒否した、と聞いています。

恐るべき「競争意識」です。 競争心は、差別意識をも促進します。 

人と競うのは人間の本能でしょうが、この本能を矯める工夫が、現代の人間には、必要なのです。 ところが、世間には、仲間意識を逆手にとって競争を煽る道具、機会、制度、が満ち溢れています。 政府が音頭をとる「賭け事(?)」センターをはじめ、家庭内のゲームに至るまで、勝負を争い煽る気風や道具が、街々の隅々まで染み渡っています。 人間は、本能的に勝負を好みます。 

この人間の弱点は、XXX症として病的なレベルへ高まりますが、この「XXX症」を抑えることはおろか、促進する試み(施策・制度)が、「金儲け(国家収入改善)」の為に施行されようとしています。 

「競争意識」は、悪の根源です。 競争意識は、差別意識にも繋がります。 長い生物の歴史を通して人間は、競争を自然(本能的)に受け入れるようになっています。 この傾向は、人間が万物の霊長となるまでは、競争を通して人間の能力は長所として機能してきましたが、進歩を遂げてしまった人間には、弱点になっています。 

自分たち同士で争うのは愚行です。 「競争が、進歩を促した」のは昔の話で今は誤った考えであり、競争は人間を破滅へ導きます。

お笑い種

近頃、大学入学試験の英語試験問題について、世間は紛争し喧しい。 「移入だ(いにゆうだ)??」大臣が、大学入学試験の、特に英語の試験は、「自分の背丈に合わせて~」と発言したのが、「教育における差別」に繋がると論議が起こっている。 私は、この問題に関して、一発で解決できる極めて簡略な方法を考え付いた。 前例のない方法ではない。 きわめて最近の前例である。 

この方法を使えば、関連して、日本におけるアメリカ軍基地問題、沖縄問題含めた、多くの諸々の問題も解決できる。 私の提言をわかりやすくするため、「前例」を紹介する。 幕末における「大政奉還」がそれである。 つまり、私の提案は、日本国をアメリカへ奉献するのである。 そうすれば、英語は「国語」になる。 誰もが、英語を使わねば、生活できなくなる。 当然、英語が上手になる。 

このアイデアが採用されれば、アメリカ大統領トランプ、日本国の総理大臣安倍晋三、など多くの独裁的権力者も喜ぶだろうし、おまけとして、日本国は、世界第一の強大国になる。

スポーツマンシップと差別

今度のラグビー世界戦で、ラグビー発祥の国イングランドのチームは、第二位に終わった。 私は、その場に立ち会った訳ではないので真偽はわからないが、イングランドの選手たちは、貰った「銀」メダルを表彰台に上っても、首に掛けなかった、と報道された。 

第二位では、イングランドの選手の気には入らなかったらしい。ここで、一言注釈らしいことを言えば、イングランドのチームは、「白人」のチームであり、勝った第一位のチームは、旧属国の国のチームであったばかりでなく、「黒人」のチームであった。 余計かもしれないが、ここでさらに一言を加えると、白が黒に、宗主(主人)が属国(召使)に、勝負で負けた(劣った)と明白に示された「口惜しさ」も加わっているかも知れない(おそらく、口には出さなかった差別意識が働いていたであろう)。 ちなみに、8ベストの中に入った黄色の日本のチームは、そして日本中の人々が大喜びした。 

ワンチームの成果だというのである(差別意識を探ってみると、今回のラグビー大会では、一致団結さえすれば、小柄な黄色が大柄な白に勝つこともあり得ることの証明を得た)。

スポーツでは、「フエアプレイ」の精神、「スポーツマンシップ」が必要だというが、今回の世界ラグビー大会では、そうした「フェアプレイ」を言い出し、そして「ラグビー・ゲーム」そのものを発祥さえたイギリス人が、「フエアプレイ」が、肝心のスポーツの世界でもあり得ないことを証明したのである。 まして、一般生活の中での差別意識は、根強い。 差別意識は、容易に消え去る者ではない。 現に、いまだに自由平等の国の本山、アメリカ合衆国でも、その大統領からして、人間平等が「嘘っぱち」だと証明している。

「言うは易く、行うは難い」と、黄色い、未開の昔の中国人は言いました。

悲しき自動販売機

この老人ホーム、通常、入居者は外出させない。 外出させると、行方も言わずに徘徊する認知症患者が多いからだ。 そういった理由もあって、施設内に飲料などを扱う自動販売機を設置しているが、一階に置かれたこの販売機、本当によく壊れる。聞くところによれば、この一階の販売機がよく壊れる。

理由は、一階に認知症と糖尿病の二つを患う悲しい老人が居るからだ、言う。 この老人の後見をする娘さん、自動販売機が相手かまわず、金さえ払えば食物(ジュース)を売ってしまうものだから、施設管理者へ事情を説明して、この老人には自動販売機を遣わせないでくれと頼み込んだ。

娘さんもこの男がいい年をした大人(父親)なので、僅かだがいつも少しの小遣い銭を持たせている。 他方、この男も自分なりの大人(父親)としての矜持を持っているので、自分勝手に自動販売機でジュースを買おうとする。 娘さんも、いつも傍にいるわけではないから、「それ、お父さんの体のいけないのよ!」と止めることはできない。 事情を聴かされている施設の管理者は、娘立てれば、父親立たず、父親立てれば、娘立たず、の平重盛の状態に追い込まれた。 どうしよう?

他にも利用者がいるにも拘らず、施設管理者は、苦心の挙句、苦肉の一策に考えが及んだ。 そうだ、販売機に[故障中]の札をつけよう。 そうすれば、このおっさん、文盲じゃないから、自動販売機の利用を諦めるだろう…。 

と言って、他にも、文盲でない入居者が多いから、この苦肉の策、「苦い肉」どころか、「臍(ほぞ)」を噛むことになるかもしれない。 今日現在は、まだ、「苦い臍」の話は、聞いていない。

 

ワンチーム Ⅲ

先に、「ワンチーム」、および 「ワンチームⅡ」で、ワンチームという考え方が「排他的」であり、「和(なごみ)」を尊重する日本人にとっては、望ましくない考え方である、と確認しました。 

更に、ワンチームが望ましくない理由が他にもあります。 日本人にとってのみならず人類一般にとって望ましくない理由があります。

それは、「差別」の思想です。 結束は、既に確認したように、排他的です。 「他」を排する思想は、まず、「自」と「他」を区別します。 その上で、「自(分)」を良しとし、「他(人)」」を悪し、とする思想です。 自他を区別し、自分を良しとする考えは、「差別」に他なりません。 現代も、「自分の国」をファーストとする大国の横暴な行為に、世界中が迷惑を被っています。 

世界中にワンチーム思想と行動が蔓延ると、世界平和を脅かすものへ発
展します。 世界中が、競争と戦争の混乱に見舞われ、多くの人々、そして子供たちが、避難しなくてはならなくなるのです。