鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

有料老人ホームに於ける人間関係

人間の集団に於いては、人間関係が発生するのは必然である。 従って、老人ホームも例外ではあり得ない。 ところが、「有料」と謳う事業化された、特に、肥大化された大老人ホームでは、有料化された事業であるが故に、健常者(進んで、引退・隠居を希望する人たち)、異常者(老耄化した人、認知証患者、その他身体障害者、etc.)、つまり、費用が負担できる人たち、なら、誰でも家庭で(家族の庇護を潔くせず、進んで隠居を求める人を含めて)持て余した厄介者を中心(例えば、65歳上と言った条件を設けて)に掻き集めている。 結果として、有料老人ホームには、異常老人の割合が多くなり克ちであり、また、健常老人、異常老人の「混住」になり易い.

 

人間関係という言葉がある。 これを大切にしなさい、これを良くしろ、これを維持せよ、云々と、世間では「人間関係」問題は喧しい。 しかし、この人間関係を良くする願いは、健常な人たちの間でこそ求められるので、健常者・異常者混住の社会では、通常の文明社会は存在せず、通常の人間関係は求め難い。 良い人間関係の前提は、人間同士の「付き合い」、「やり取り」であるが、文化や文明は、「人間の付き合い方」を基礎にしているから、健・異混住の社会では、通常の文明や文化求められない。 有料老人ホームは、その意味で、別世界なのである。

 

この別世界には、いわゆる人間関係は存在しないので、この世界へ自分の親や親族を送り込む人たち(金を払う人たち=身元引受人と名付けたりする)は、そのことをよく知っていないと、酷い仕打ちをその親や親族に加えることになる。 極言すると、有料老人ホームへ、昔のように姥捨山へ親や親族を送り込むことと変わりは無い。 引受側(老人ホーム経営側)が、如何に美々しく言葉を飾ろうとも、その言葉に載せられてはならない。

 

翻って、体力・知力が衰え、ボケたり、認知症を患ったりするために、十全な人間活動を尽くせなくなることがある。 しかし、高齢化することと、ボケること、認知症を患うこと、とは、同じではない。 誰もが、高齢化することには間違いないが、誰もが、必ずボケたり、認知症を患ったりするわけではない。 

 

逆に、高齢化することによって、知恵が冴えることもある。 つまり、誰もが「廃人化」するわけでもない。  例えば、「90歳。 何がめでたい」の著者、佐藤愛子を考えてみれば良い。 80歳を超えて、尚、エベレストを登頂した三浦雄一郎を見よ。 100歳になっても尚、現役病院長である日野原重明の例もある。 また、NHKの放送番組「やすらぎの郷」登場する数々の高齢化した芸能人も例外ではない。 この人達は、「楽しく」社会生活を送っている。 彼等の間には「人間関係」やいわゆる「文化」が成立している。

 

 聞けば、やすらぎの郷は、無料だという。 然るに、私が住む老人ホームは、「拘束の無い(嘘だ)」有料介護老人ホームだと称している。 もちろん、有料であるから、「混住」である。 近頃は、儲けが薄くなってきている故か、儲けのチャンスが大きくなってきた故か(高齢者や認知症患者の数が増えている)、混住の程度が高まり、異常者入居者の数(割合)も増えている。 金儲けに、ボケ老人、認知症患者を掻き集めているのである。 その結果、廃人たちを集めて、人間関係の成立しない「無」文化(非人間的)世界を築き、「有料」どころか、「不良(異常)」高齢入居者の、そして家族の、近所の、職員の「幸福」を謳って、美々しく宣伝しているが、 高齢者を「出汁(ダシ)」にして、金を儲けているに過ぎない。 それも、単なる入居者からだけの儲けではない、国民一般の税金(介護保険からくる補助/収入)によっても儲けを得ている!

 

体力の衰えた老人を出汁にして、幸福を贖うことを名目に、金儲けの手がかりにしているのは、道徳的にも糾弾されるべきだろう。 有料老人ホームには、ホーム内の豊かな文化の形成、良き人間関係の成立に尽くす経営管理が望まれるが、この老人ホームには、そうした目的のための努力の気配すら窺われ無い。 窺われれるのは、あらゆる機会を掴んで、一銭でも多くの金を取ろうとする「狡っ辛い(こすっからい)」姿勢である。