鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

筆談

江戸市民150万は、救われた。 諸外国列強の日本国侵略は回避された。 その切掛(きっかけ)は、山岡鉄太郎と益満休之助の事前会談、それに引き続く勝海舟西郷隆盛の官軍江戸城攻撃直前の会談にあった。

 

幕末の国内の大名の数は、北は樺太、千島、北海道の分領(陣所/陣屋)を含めて、300近くあった。 勝海舟は生粋の江戸っ子、西郷隆盛(せごドン)は、まじりっけのない鹿児島男児。 どちら、キツイ訛りの言葉を使った筈。 そう言えば、幕府は諸大名の「移封(移動)」を盛んに行った。 例えば、九州日向(大分)の高鍋藩主秋月種美の次男として生まれた松三郎(幼名:江戸育ち)は、東北・出羽国米沢へ養子入りして米沢藩の藩主になっているが、何人かの家来たちを同伴した筈。 彼等はお国育ちの家臣たちとの交流には苦労したに違いない。 この苦労は、方言では容易に越えられない。 しかし、方言では無理でも、筆談では交流出来る。

 

山岡と益満、勝と西郷たちは、江戸城攻撃を直前にして、どうのように、会談したのだろう。 方言(江戸弁と鹿児島弁)じゃや無理だな。 訛りがキツすぎる。 文字だ! 当時の日本国民(当時日本国は存在しなかったが)幕府(明治政府の調査によれば)の識字率は、寺子屋(上方)や筆学所=幼児筆学所(江戸)などの普及もあって、日本人の識字率は,70~86%であり、自分の名前がかける男子日本人は、89%、女子は39%)で世界最高であった(ちなみに、当時のイギリルス工業都市での識字率は20%~25%,フランスでは、14%であった)!

 

勝とせごドンは、おそらく足りないところを筆談で補った違いない。 文字だけは、日本全国共通であったから。 そして、文字が150万の江戸市民を戦乱の破壊から救われたのだ。