鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

教育レベル

昔から、日本人の教育レベルは高かった。 その高い日本人の教育レベルの勢いが、明治維新以後の急速な日本国の発展を可能にした。 丁度、矯め(ため)られていた弓つる(ゆずる)が、一挙に放なたれたように躍進したと思われる。

 

日本人の教育レベルの高さは、日本における「識字率」にも表されている。 江戸時代嘉永年間(1850年頃)の日本人の就学率は、70%~86%だと言われるが、当時、イギリスの主な工業都市で、識字率は20%~25%(1837年)、フランスで1.4%(1793年)、帝政ロシアのモスコー市で20%(1850年)であった。 

 

当時の村民の91%が寺子屋に入門していたと記録される近江の国北庄村(現滋賀県東近江市宮荘町)の例から推し量かると、日本人の就学律は恐るべきものであった。 記録によれば、9歳以上の人で、自分の姓名を書ける者が男子で89%、女子で39%であった。 さらに、この数字には、日常の出納帳簿を期しうる者22.5%、普通の書簡や証書を自署し得る者6.8%、普通の公用文に差し支えの無い者3.0%、公布達を読みうる者1.4%、それに加えて新聞論説を読みうる者2.6%が含まれている。

 

こうした識字率の高さを可能にしたのは、日本のおける学校(上方では寺子屋
江戸では指南所、または幼童指南所)が存在した。 中央都市ばかりでなく、寺子屋制度は、地方の町村にまで広がり、大都市では「大」寺子屋なども創立されていた。 ちなみに、江戸では大寺子屋(指南所)が400~500軒、地方の小寺子屋を含め全国に16,560軒の寺子屋の存在が報告されている。 また、安政から慶応へかけての14年間に、年間300を超える数の寺子屋が開業している。 幕末に近づくに連れ、寺子屋も事業化(職業的経営化)していっている。

 

教師としては、中世には、専ら僧侶がこの仕事に当っていたが、江戸時代に入ると、主家を離れた浪人の就職口として、さらには、学のある町人・百姓までがこの仕事に当たるようになってきた。 浪人や町人出身の師匠の中にも、尊王攘夷論が唱えられるようになると、国学の初歩、古典、を教えるものまで現れてきた。

なお、指南(教育)の思想は、中国の「指南車(方向を示すもの=英語のオリエント= Orient=東を向く)」に由来するが、日本では、斉明天皇(658年)の時代にこの言葉が記録されており、早くから中国からの帰国僧侶によって、庶民へも教育が施されるようになっていたことが分かる。

 

また、寺社建築の必要から、師匠が弟子へ「口伝」で伝えるという教育方法も
日本では早くから執られていた。 口伝は、文字通り、口から口へ教えるものだが、仕事の中には、口だけでは容易に伝えられないこともあり、師匠の仕事の進め方を「見よう見まね」で覚えて(盗んで)ゆく事柄も多い。 さらには、自らの工夫で編み出してゆく仕事内容もあった。 「習うより、慣れろ」の教育方針が善く執られたのである。 こうして自ら発明・発見するプロセスも執られるように成ってきた。

 

このような自発的発明・発見の結果は、日本の古代建築物に見られる。 例えば、寺社建築、特に木造五重塔の耐震構造がそうである。 この耐震構造の考え方は、近代建築に於いても採用されている。 日本人の教育レベルの高さは、識字に由来するのみではない。 自発的創意工夫の成果も含んでいる。

 

日本人のノーベル賞受賞者の数が多いことや芸術・工芸作品に傑作が多いのも、識字率の高さばかりでなく、こうした「伝来の」教育水準(レベル)そのものの高さからも来ていると思われる。