鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

標準語

江戸城無血開城の談判(会談)は、何弁で?

江戸総攻撃のわずか2日前、勝海舟と薩摩の西郷隆盛が、江戸城無血開城の談判を行ったと言われています。 勝は生粋の江戸っ子、西郷は根っからの薩摩ッペ。 では、何弁で談判した? お互いの言葉はチンプンカンプンだった筈。

 

事前に、山岡鉄舟(鉄太郎)が、薩摩藩士益満休之助に随行されて駿府(現静岡)まで赴き、下相談をしておいたと聞く。 さりとは言え、急場の江戸弁と鹿児島弁の交渉は、成り立たない筈。

 

総大将の西郷隆盛は、倒幕強硬派として指揮を取っていましたが、勝との会談で江戸進撃を中止しました。 江戸総攻撃予定日のわずか2日前でした。 倒幕へ血気盛んな新政府軍が、旧徳川幕府の本拠である江戸城を包囲しながら、攻撃を取りやめたのです。  勝海舟江戸城無血開城に向けておこなった交渉とはどんなものだったのでしょう。 べらんめぇの江戸弁で? それとも、

せごどんが使う鹿児島弁で?

 

幕府の陸軍総裁である勝海舟は、人口150万人の江戸を戦火から守るため、無抵抗で新政府軍に明け渡すという仰天プランを打ち出します。 このまま新政府軍と戦えば、江戸は火の海になり多くの民が犠牲になる。 それは財政悪化と国力低下につながり、そこをつけ込まれて日本は西洋列強の植民地になってしまうと考え、必ず阻止すると決断します。

 

勝海舟は、幕府内で早期停戦と無血開城を主張して一人動き出します。 幕臣でありながら、独自の国家感で日本の将来設計を最重要視していました。 さすが、信念と行動の男。その決断が揺らぐことはなく、江戸城開城交渉へと突き進みます。

 

西郷隆盛勝海舟の会談]

慶応4(1868)年3月14日。 江戸の薩摩藩邸。

勝海舟から江戸城開城についての要望と考えを聞いた西郷隆盛は、「総督府に持ち帰って協議しますが、明日の進撃は取り止めます。 と独断で答えました。

最終的に、新政府軍が江戸を攻撃することはありませんでした。

 

江戸は戦火を免れ、西洋列強につけいる隙を与えませんでした。 国家の将来を考えた2人が下した歴史的英断です。 命がけで無血開城を実現した勝海舟こそ真の「公人」の姿であり、それに応えた西郷隆盛の器と視野の大きさにも敬意を表します。

 

しかしながら、高揚した新政府軍兵士には鉾先が必要でした。江戸進撃は、諸藩連合である新政府軍の結束強化も目的としたため、振り上げた拳(こぶし)をどこかに降ろさなければなりませんでした。  戦って勝利しないと収まりがつかないってことです。 倒幕を終えた新政府軍は、佐幕派の討伐に東北の会津若松、庄内、南部、北海道松前へと突き進みます。


標準語誕生への動き

「標準語」作りが国家事業として推進されるようになるのは明治時代もなかば過ぎからである。帝国大学言語学科の初代日本人教授となった上田万年が、『国語のため』ではじめて日本語において「標準語」の必要を説いたのが明治28年、これを受けて文部省に国語調査委員会が設置されたのが明治35年。明治ももう残り10年という時期であった。同委員会は全般的に近代日本語の基盤作りを行うことが任務であったが、その調査指針のひとつに「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」という柱が立てられており、明治39年には全国調査を踏まえて『口語法調査報告書・同分布図』が刊行され、はじめて方言実態が科学的に明らかにされた。これを踏まえてトップダウンに「標準語を選定する」という国家事業が推進された結果、標準語の具体的規範が明瞭となり、その成果は逐次学校教育に反映されることになる。(ウイキペデイア)

 

この標準語選定が行われたのは、江戸城無血開城の40年程も後のことでした。

これでは、勝と西郷の会談が「標準語」を使って為された筈がありません。 では、江戸弁と鹿児島弁でしょうか?  それも、不可能に近いでしょう。 おそらく、足らぬところを文筆で補って 為されたに違いありません。 幸い、当時の日本国民の識字率は、世界一でした。 特に、侍の間では、文筆が普段に使われていましたから、方言を使わずとも、勝と西郷の会談も、文筆の助けを借りて、十分に果たされていた事と思います。

 

幕末に至るまで、日本国は方言の世界でした。 どこへ往こうとも、その地の方言で、物事が運ばれ、足りたのです。 「標準語」は、明治時代も終わり近く、学者連が考え出したものです。 方言こそ、本当の日本語なのです。 東京の中流階級(?)の言葉に範を取って、「仮に(?)」標準語としたのです。 

道理で方言でなければ、「気」が乗らない事が多いのです。 「駄目」というよりも「あかん」とか、「あかへん」と言う方が、関西人らしいのです。