鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

Freedom(フリーダム)

文政10年(1827年)に四国土佐の半農半漁の家の次男として生まれ、父を8歳の時に亡くし、病身の兄と母を抱えて幼い頃から家族のために働いていたこの少年は、寺子屋へ通う幸せにも恵まれなかった。

 

しかし、「禍福は糾える縄の如く」、「人間万事塞翁が馬」であった。 この少年は、ある時漁に出て嵐にあい難破した。 そして、5日半、仲間の漁師とともに太平洋を漂流していたが、伊豆諸島中の無人島へ漂着した。この島に143日間仲間とともに生活している内にアメリカの捕鯨船に救われた。 しかし、当時は、鎖国主義で、国を閉ざしていた日本へ帰ることを諦め、仲間内の数人は、ハワイ諸島で降ろされたが、頭がよいと船長ホイットフイールドに見込まれたこの少年は、本人の希望もあって、アメリカ本土まで連れてゆかれ、その地で正式の教育を受けることになった。

 

この少年は、見よう見まねで米語(口語)やアメリカ人の生活習慣を覚えたので、幕末には日本国に戻り、通訳として働いたが、幕府役人たち(高位の役人は特に)、この少年(その頃は、成年・成年に達していたが)の通訳を「敵、つまりアメリカ側」」に通じる恐れがあるとして、重用しなかった。 この少年は、おそらく、自由の国、アメリカ人の日常生活、政治、経済の仕組み、等を実見していたので、Freedom(自由)がどんなものであるかを体感していたであろう。 

 

長い年月の間、士農工商の軛(くびき)に縛られてきた日本人の間には、自由(freedom)の観念そのものが存在しなかったから、フリーダムという言葉自体が、訳の分からぬものであったと思う。 しかも、日本人は、この少年の発言、発想、思想、には、耳を貸さなかった。 自由は、正に、「豚に真珠」だったのである。 日本人にとっては、「拘束」が日常であり、不自由が当然だったのである。 未だに、多くの日本人にとって「自由(この言葉は、明治時代に福沢諭吉が導入)」は、近くて遠いものである。 言葉はできたが、中身ができていない 未だに、古い士農工商の「身分」の観念(亡霊)に取り憑かれている。

 

この少年は、その後、微祿ながら士分に取り立てられ、生地、土佐の国の中濱村の地名にちなんで、その後「中浜万次郎」と名乗った。 この少年の子孫は、日本に現在も住んでいる。