鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

Freedom(フリーダム):2

土佐方言で語られたであろうアメリカで教育を受けた(バーレット・アカデミーで英語、数学、測量術、航海術、造船技術を学ぶ)中浜万次郎の日本語に依る建言は、幕閣の要人によってあまり重んじられなかった。 しかし、彼は、土佐藩で微祿ながら士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任ぜられていた。 見える人には、見えるのである。

 

彼は、アメリカ滞在中、民主主義(自由平等),男女平等、そして人種差別も、体感し、学んだ。 しかし、残念ながら、日本の要人たちに、彼が報告し、伝える海外事情は、かって寺子屋へすらも行けなかった、拙い(つたない)土佐訛の日本語を通してであった(武家には、漢文の教養が備わっているのが常であった)。 かてて加えて、時の老中には、中浜万次郎が、アメリカが寄越したスパイではないか疑う心狭い疑惑が加わっていた。

 

自由平等の精神は、自由を経験したことのない日本人の頭には、全く無かった観念であった。 最も、士農工商の身分(分際)に日常不自由を感じなかたのだから、日本人には、「自由の観念」は要らなかったのかも知れない。 従ってこの言葉「Freedom(フリーダム」を日本語に「訳」すことは、無い観念を訳すのだから、不可能であっただろう。 

 

この言葉自体は古くから在った。 まず、古代中国の後漢書、ついで、徒然草の文中に、しかし、Freedom の意味を、「自由」と表現したのは、明治3年、福沢諭吉が自著「西洋事情」の文中が最初であった。 

 

中浜万次郎は、「自由」をアメリカで経験し、知ってはいたが、その観念を表す適切な言葉を知らなかった。 口が酸っぱくなるまで、「自由」を説明しても、頑迷固陋な日本人の頭では、解らなかった。 

 

明治15年、岐阜での演説の最中、板垣退助は暴漢に襲われ負傷したが、その負傷した状態に於いて、板垣退助は「板垣死すとも、自由は死せず」と叫んだと言われる。 こうして自由の観念が、ようやく、日本に定着し始めたのである。 

「拘束無き」を求める声が生まれて来たのである。