鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

人生の徘徊

彼が言う住所から判断すると、約10キロメートルは、離れている。 テレビの天気予報、などから、予想できたのは、いつ何時、雨が振り始めても不思議のない夕方7時頃。 既に当たりは、暗くなっていた。 今日は、週末の金曜日、この近くの老人ホームへ預けてある親父を訪問しようと、この若い夫婦は、車を狭い道路を走らせていた。 すると、薄明かりの道路を「トボトボ」と歩いている一人の老人を見かけた。 直感的に、この老人は怪しい、と気付いた。 どこへ行くつもりか、と尋ねても、答えはない。

 

これは、ある日の出来事の話である。 その老人を車に乗せて、幸い、行く先が、親父に居る老人ホームであったから、この老人をそこまで同行して連れて行った。 近くの警察に連絡して、老人を一人預かった旨を伝えると、丁度、その老人に家族が、独りで出ていった老人を探していたと言う。

 

行く宛もなく、だだ歩いているのは、「独行」ではあるが、心もとない。 行く宛は、遠くでなくとも良い。 たとえ近場であっても現状の認識があり、当面の行く先を決めているのなら、まだ良い。 それが定まっていないのが、問題なのである。 

 

自儘勝手は良い。 おそらく、それは個人の自由の問題であり、他人の容喙(ようかい)すべき事柄ではないのかも知れない。 とは言え、無目的な独り歩きは、世間を騒がす恐れがある。 暴走も、自由勝手の問題と言えるかもしれない。 しかし、先が見えているか? 先の見えない動きは、盲走(妄想=もうそう)であり、徘徊である。

 

行く先を決めない盲走には、自主性らしいものが窺われても、主体性がない。

主体性とは、自分の立場を認識し、行く先の見通しが効いていることである。

人間には、本来「主体」が備わっている筈である。 その主体を自らで確認し、維持することが無ければ、「主体性」を失うことになる。 主体性を失った人生は、徘徊する人生である。 水面(みなも)に漂う人生は、くだらない。

 

日本漢字教育振興会編『知っ得 日常ことば 語源辞典』(日本漢字能力検定協会)なんていう本にも見えていて、
「江戸時代までは京都・大阪が上方と呼ばれ、文化的にも江戸より風上に立っていたので、京から地方へ送る物は「下〔くだ〕り物」と呼ばれた。「下り諸白〔もろはく〕」は上方で醸造して江戸へ送った極上酒の称だったので、まずい酒を「下〔くだ〕らない酒」といったことから劣悪なもの、つまらないものを「下らない」というようになったといわれる。」 と説明してある。