鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

主体性と暗中模索

 

主体性とは、置かれた状況の中で、その状況を分析、確認した上で、自らの向かう方向の見当をつけて、その目標に向かって、自主的に進んでゆくことだ、と考えました。 行動の目標を他から与えられた上で、その目標に向かうのは、自律(自立)的かも知れませんが、必ずしも、主体的ではありません。 

 

遣唐使の場合(630~200年以上継続)

。。。。日本側の事情としては遣唐使以外の海外渡航を禁止していた「渡海制」の存在も影響し、。。。渡海に必要な航海技術造船技術の低下をもたらし、海難の多発やそれに伴う遣唐使意欲の低下をもたらした。 結果的には「最後の遣唐使」となった承和5年(835年)の遣唐使は出発に2度失敗し、。。

 

更に留学生・請益生(短期留学生)を巡る環境の悪化も問題として浮上していた。 元来留学生は次の遣使(日本であれば次の遣唐使が派遣される20-30年後)まで唐に滞在し、費用の不足があれば唐側の官費支給が行われていたが、承和の留学生であった円載の時には官費支給は5年間と制約され、以後日本の朝廷などの支援を受けて留学を続けた(なお、円載の留学は40年に及んだが、帰国時に遭難して水死する)。また、留学――現地で長期間生活する上で必要な漢語(中国語)の習得に苦労する者も多かった。 天台宗を日本に伝えた最澄は漢語が出来ず、弟子の義真が訳語(通訳)を務め、橘逸勢は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており)、最終的に2年間で帰国が認められている。

 

暗黒大陸アフリカ横断を試みたリヴィングストーンの場合

リヴィングストンは、1813年にスコットランドサウス・ラナークシャーにあるブランタイア(Blantyre)で生まれた。  生家は貧しく、10歳の頃から近所の紡績工場で働くことを余儀なくされるが、聖書ラテン語等の学問への意欲は旺盛であった。彼は日中の工場での仕事中に本を読む工夫をしつつ、仕事が終わってからは夜間学校で熱心に勉強をした。

 

この時期に中国朝鮮日本で宣教を行ったドイツの宣教師、カール・ギュツラフに深く感銘を受け、宣教師になり、中国医療を施しながら布教することを志すようになった。1836年、グラスゴー大学に入学、長期休暇の度にブランタイアへ戻って工場で働きながら、医学神学を学ぶ。1838年にはロンドン宣教師協会へ入会し、宣教師としての研修を受ける。1840年から始まった阿片戦争により、彼の中国行きは頓挫してしまうが、同じくスコットランド人でアフリカ大陸に渡った宣教師ロバート・モファットと知り合い、話を聞きアフリカでの宣教に魅了される。宣教拠点をアフリカへ変更したリヴィングストンは、南アフリカ支部の宣教師として派遣されることとなった。

 

1840年12月8日、蒸気船で当時イギリス領であった南アフリカへ出発、ケープタウンへ到着後移動し、ベチュアナランド(現ボツワナ)のクルマンに居を構える。ロンドンの監督官からの指示を待つ間、布教の拠点となる地方を探し、アフリカ内陸部を北上し方々を探検、クルマンから北東方向へ200マイルの地点にある、マボツァを第一の拠点に設定する。その直後、夜間に野生のライオンに襲われたリヴィングストンは左腕に重傷を負い、死後その傷は彼を識別する身体的な証拠となった。

 

ヴァスコ・ダ・ガマコロンブスの場合

当時、西ヨーロッパ諸国は共通して王室の財政難を抱えていた。アフリカ進出は、各国の念願であった。 セウタ攻略などの出費は免れず、この建て直しに迫られており、黄金香料が豊富なインディアスとの直接貿易が志向された。

 

また、東方のキリスト教国と言われたプレスター・ジョンの国と連携する構想が現実味を帯びた。ジョアン2世が派遣した使節は陸路でエチオピアとの接触を果たし]、海路においてもバルトロメウ・ディアスを派遣し、1488年にはアフリカ大陸南端の喜望峰到達を達成していた。  しかし1493年、スペインの支援を受けたクリストファー・コロンブスが西回り航路でインディアス(インドと勘違い)アメリカ大陸)に到達した成果を受けて発布された教皇アレクサンデル6世教皇が設定した子午線ポルトガルにショックを与えた。 こうして、ポルトガルの活動はアフリカ沿岸に絞られることになった。 1495年に亡くなったジョアン2世を継いだマヌエル1世はインド航路の発見に積極的であり、。。。。 この艦隊派遣では、航路の発見に並びプレスター・ジョンの国およびインドとの親交と貿易の端緒をつくることが目的とされた。このように、ヴァスコ・ダ・ガマの航海は事前に計画が立案されたもので、その点では、自発的に開始されたコロンブスのような自らの意思で未知の海域に踏み出したものとは根本的に異なる。

 

遣唐使に同行して、唐の国に渡った留学生たち、暗黒大陸アフリカを横断したリヴィングストーン、世界で初めてアフリカ南端希望峰を越えたヴァスコ・ダ・ガマ、未知の大西洋を渡りつつ、アメリカ大陸を発見したコロンブスらに共通する点は(ヴァスコ・ダ・ガマの事例では、教皇の示唆はあったものの)未知の状況の中で、危険負担をしようとする(リスクテーキング)な意気込みであり、状況すらも暗中模索し、自分で分析・確認し、築いて行こうとするそうした危険負担の気性=冒険心こそ主体性の根本に他ならない。

 

繰り返し確認すると、主体性は、単なる自主性や自立性(自律性)とは異なり、自らの力で、自分の行動の目標と方向を定め進んで行くことですが、その目標と方向を定めるためには、置かれた状況を暗中模索し、分析・確認することが前提となります。 そこには、たとえ、おずおずとした慎重な出足ではあっても、、危険を負担(リスクテーキング)な意思と意気があらねばなりません。