鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

認知症患者との交流(更新)

昨朝、あるテレビ番組で、東京のあるレストランでの、認知症患者を中心にしたレストラン営業の試みを映していた。 認知症患者ウエイター(?)の配膳が、注文通りに行われなくても、配膳中に彼等が客の意表を付いて、テーブルへ座り込んでも、客の側がこれを受け入れて、認知症患者が一般社会へ溶け込んで行くのを助けようとする試みであった(この試みには、外国からの問合わせもあるやに聞く)。

 

認知症患者の社会への復帰は、一般人が笑い、許して助けねばならない程に、難しいことである。 認知症患者の社会への復帰・適応を、おおらかな気持ちで受け入れ、笑って許すことを、日常茶飯のこととして恒常的に行わねばならないとなると、特別の訓練を受け、修行を経た人、または、認知症患者の特異な行動を許し受け止めることに使命を感じている人は別として、普通の一般人にとっては、(さらには、特別の経験も、教育もない人にとっては)耐え難く、難しいことである。

 

何度も、私は自分の20年近い老人ホーム生活経験に基づいて、普通人と異常人(ボケ老人、認知症患者、etc,)との「混住」は、極めて難しいと述べてきた。 基本的に彼らと健常人の間では、相互交流(社会=人間関係)が成り立たないからである。 「彼等の社会復帰を援助する」と言う言葉は美しいし、その場限りのことなら出来るだろうが、この援助活動を日常的に行なうには、余程の覚悟が必要になる。 老人ホームに終の棲家として永住し、混住する一般健常自立老人に、そのような覚悟があるだろうか? 「無い」と私は言える。

 

最近、よく話題に登る「知的障害者に対する」介護職員たちの残虐な行為は、介護職員の心底を考えると、頷けなくもない。 いくら介護を職業としているにしても、介護職員がかんしゃく玉が破裂させるのも当然である。介護職員といえども、人間である。 「頭へくる」こともある。 専門語は心得ないが、殺人等の異常行動も、殺人者の側の心理状態が、異常・で、錯乱している場合は、日本の裁判制度では、「情状酌量」の対象になると聞いている。

 

自分の身内を殺された家族の気持ちも分からないではないが、殺人者が「錯乱」している場合には、死んだ者は生き返らない。 盆にこぼれた水は戻らない。

例え、悔しくとも、日本流に「仕様がない」と考えざるを得ないかも知れない。

元々、健常人(?:この場合は介護職員)と異常者とを「限界状況」へ置いているのである(このことは、介護職員に特段に必要な事前の訓練、いや鍛錬の必要を示しているが、論点が逸れるので、この点を論ずるのは、別の機会にゆずりたい)。

 

この様な「限界」状態が、殺人とまでは行かないまでも、「混住」を前提とする有料老人ホームでは、自立する健常老人に混ざって、認知症患者がウジャウジャと居るために、しかも、今後ますます認知症患者が増え、かつ、家庭から姥捨山(老人ホーム)弾き出されるようになるとすると、大いに起こり得るのである。

 

認知症患者、ボケ老人の一般健常者からの「隔離」を唱えるのは、彼等を差別するからではない。  彼等を守るためである。 

 

営利を主眼とする事業化された有料老人ホームでは、認知症患者と健常自立老人の、どちらをも追い出す訳にはいかない。 これは、おそらく、自立老人との混住を認める行政の問題である。

 

「後の祭り」と言う言葉もある。 事が起ってからの手当に騒ぐよりも、事を「未然に」防ぐ手立てが緊急に必要である。 行政による緊急措置を促したい。