鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

ないまぜ

今日は、複雑な気分を味わった。 バスに乗ったら、丁度、満員だった。で、二ストップばかり、立ちん坊だなと思ったら、最前列に座っていた60歳ぐらいの中老らしい「奴」が、サッと立ち上がった。 俺に、座れと席を譲ってくれたらしい。 衆視の面前だ。 「何を小癪な若造め」と思ったが、座ったほうが楽なので、やはり座ることにした。 座りながら、揺れるバスの中の傍で立っているその男の後ろ姿を見ながら、「ないまぜ」になった自分の気持ちを考えていた。

 

私は、間もなく米寿を迎える。 傍目には、老人に見えるのだろうが(事実、杖を付いて、ヨボヨボと歩いている)、気はまだ若い。 安田善次郎が言った

「50~60は小僧子だ。 80~90で、男盛り」に同感している若者のつもりだ。

 

注:安田善次郎。 富生まれ。 実業家。 安田財閥創設者。 父は富山藩下級藩士。 17歳江戸に出、丁稚奉公後元元年(1864)両替店安田屋開業。 太政官札公債などの取引官公預金などで蓄財し、 東京屈指の金融業者となる。 明治9年(1876)第三国立銀行創立参加、  13年(1880)に安田銀行開業。 15年(1882)には創立された日本銀行理事就任した。  また、生命保険損害保険業にも進出した。 晩年東京大学安田講堂日比谷公会堂寄付。 大正10年(1921)国粋主義者朝日平吾暗殺された。  (注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」より

 

こうしたこともあって、私は、世間では、老人のことをどう思っているのか調べて見ることにした。

 

老人

歳を取った人。年寄り。 老人福祉法では、老人の定義はないが、具体的な施策対象は65歳以上を原則としている。 「老人医療」

[用法]老人・としより――「老人」は、文章やあらたまった話の中では最も一般的に使われる語。 特に「老人福祉」、「老人ホーム」のように複合語を作る場合、「年寄り」は使わないのが普通。 

 

◇「年寄り」は「老人」よりややくだけた親しみのある感じで使われる。 前後関係によって軽蔑の感じが強く出ることもある。 「お年寄りを大切にしよう」、「年寄りの冷や水」など。 ◇類似の語に「老体」がある。 「老体」は「御老体を煩わせてすみません」というような形で尊敬をこめて言う場合にも用いる。 ◇年齢が高いことを示す「高齢者」が広く使われるようになっている。 ◇「老人」が個人を指す場合は男であることが多い。 女性については「老婦人」、「老女」、「老婆」などを用いることが多い。 「年寄り」「老体」にはこのような使い分けはない。 (Web より)

 

ろうじん【老人】

老人になるということは,単なる生物学的事象というより社会的・文化的事象である。 〈老人〉は〈子ども〉や〈おとな〉などとともに人生の諸段階を表す社会的範疇であり,それらの範疇がどのように区切られるかは社会によって違いがあるが,一般的に人生の諸段階は,〈子ども〉〈おとな〉〈老人〉の3範疇に分けられよう。 〈子ども〉がまだ家を超えた生産関係ネットワークに加入していない世代,〈おとな〉がその生産関係のネットワークの中心的な担い手となっている世代であるのに対し,〈老人〉は,生産関係のネットワークから退き,生産手段を後世代に譲り渡した世代である。(出典:日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版)

 

ろうじん【老人】  

年をとった人。 年寄り。 (出典:三省堂大辞林 第三版) 

 

ろうじん【老人】

年をとった人。 年寄り。 老輩、故老、宿老、隠居、ご老体、ロートル、老爺、老翁、好々爺、じいさん、じじい、老女、老婆、老媼、媼、ばあさん、ばばあ、(出典:岩波国語辞典 第六版)

 

安田善次郎先輩は、「明快に」50~60の小僧と80歳以上の高齢者とを区別して呉れているが、世間はそうでもないようだ。 「味噌も糞も一緒に」、扱っている。 50~60の若造も、拙者輩の高齢者も、一様に「老人」で締めくくっている。 これが、いろいろの不便、苦労、そして楽と労りの種だな。 社会的通念としての老人は、概して「敬して、遠ざける」べき者であるが、「好々爺」の存在を忘れるな。

 

楽は人間を柔わ(わや?)にする。 艱難苦労は、人間の鍛える。 誰かが言った「~北緯40度以北の寒い土地で文明が生まれ、育ち、栄えるが、温かい温暖・熱帯の地帯では、何もしなくとも楽に暮らせ、生活できるので、文明は、育たない」。 だから、「頭寒足熱」が身体にも、心にも善いのであり、「切符売機械(販売機)」も冷房する。 この理屈は、分ったようで分からないが、労ってもらうと、ついつい「甘え」が出てくることは確かである。 通念によれば、50~60の若者も、80~90の高齢者も一様に、労り、介護しなければならない存在である。

注: 「わや」とは、関西、北海道、云々の方言で、「ダメ」を意味する。

 

身体障害者やボケた老人、認知症患者は、確かに、労りや介護を必要とするだろうが、バスや電車で、「超後期高齢者」に席を譲る若者を労る必要もなければ、介護しなければならない理由もない。 

 

現代の通念に可怪しいところがある。 寿命が100年に延びた現代では、「高齢者の定義」そのものを改めるべきである。 いわゆる「後期」高齢者は、今や「後期」ではない。 むしろ「中期」と呼ぶべきで、80歳以上の本当の「後期」高齢者が多く居る。

 

いわゆる「老人」は、体力に衰えが見え始めると、万事、動きが遅くなる。 健康に動けても、その動きが遅くなるのである。 時を掛ければ、昔採った杵柄を忘れはしない。 ゆっくりとなら、昔通りの立派な、ときに年の功もあって、それ以上の仕事、働きを見せるものである。 

 

いわゆる「現役」の若者は、イラチ(焦り)を抑えるべきである。 車を追い抜かれたからと言って、苛立つのは、誤解である。 たとえ後期高齢者であっても、「車」という機械に乗っておれば、操作はスローであっても、スピードは、他の連中と変らない。 

 

高齢者は、遅い。 だからといって、彼等を労り、介護して、高齢者を「柔」にするのは、大間違い。 体力が衰え、頭の回転もスローになり、彼等の知っていることも時代遅れになっているかも知れないが、彼等が、動いているのは確かである。 新しい老人についての通念として、彼等を本当に、労り、介護し、かつ、育てるためには、彼等の「遅れ気味」なのを、辛抱強く待ち、見守る姿勢が必要だ、と築く(気づく)べきなのである。