鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

同士の集い

知っている連中が、どんどん減って(死んで)行くのは、寂しいことだ。 同世代の連中が減るのだから、いわば同じ文化の空気を吸った同士が減っていくようなものだ。 そう言えば、男女の間にも、文化的相違があって、「同士」にはなり難い。 女の文化は、男の文化と違うらしいので、私が棲む有料老人ホーム(施設)に於いても、大半が「女」、それも「婆」で、おそらく教育の程度、出身地なども違うだろうから、所属する文化が増々「エイリアン(異質)」であり、お互いは同士(同志)にはなり難い。

 

私は、この施設では、恐らく異人種だと思われているだろう。 人数の少ない「男性入居者」一人でもあり、おまけに、関西人だ。 しかも、壮年時代に諸海外諸国を飛び回り、その記憶を失っているという特異な状態いる。 いかに記憶を失ったとは言え、斑状に記憶の残り滓が、頭のなかに、潜在しているから、仲間と話し辛いこと、この上ない。「孤立」もいいところだ。  

 

入居者の中にも関西人は少ない。 関東で生まれ育った家族の中においてですら、エイリアンなのかも知れない。 そのうちに宇宙の彼方へ消えていくにしても、今少し地球に留まっていたい。 最近、ブログ作成中に感じるのだが、自分の文体が、他の人のそれとは、違う。 同世代の同じ文化に属すると思われる連中の文体と「口調(語勢)」が違い、かつ、英語風、古代語風、関西風の文章を書いている。 仲間から、自分をエイリェネートしてしまっている。 

 

老人ホームは、総じて、棟割(ハーモニカ)長屋方式で作られており、個別の部屋々々が連なり、または集まって形成されているから、文字通り「隣は、何する人ぞ」の生活を送っている。 老人ホームは、その意味で、異邦人の集まりだ。 したがって、「同憂の友」を探すのは、至難である。 施設側でも、「同遊の仲間(同遊会)や(同友会)」を形成するのに余念がない。 しかし、そうは簡単に、「問屋が下ろさない」。 違った者同士の寄せ集め、お違い(たがい)をくっ付けて、「同士化、同友化」する苦心は、並や大抵ではない。

 

私は、この同系列の老人ホームを数か所、十数年に渡って、渡り歩いて生活しているが、未だ、同憂の友達には、巡り会えていない。 同憂の士は少なく、談論風発できる仲間は、容易に見つからないし、巡り会えていない。 寂しいことだ。