鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

体で覚える

パソコンのキーボード操作やピアノの引き方のような「身体で覚える」技術・知恵がある。 こうした知恵や技術の他にも喜怒哀楽のような「情」の動きも小脳の働きに依るものだとされる。 この小脳は、大脳の後ろに存在する小さな脳だが、大脳よりも遥かに大きな量の神経細胞から構成されているらしい。

この小脳に蓄えられている記憶は、「暗黙知」と呼ぶのだそうだ。 それに対して、我々が一般に「知(知力、知識)」と考えているものは、「言語知」と呼ぶのだそうだ。 

 

注1:暗黙知の概念は、もともとハンガリーの科学哲学者マイケル・ポラニーが提唱した。  彼によれば、人はつねに言葉にできることよりも多くを知ることができる。  個人がもつ知識には、言葉で表現できる部分と、言葉で表現できない部分とがあり、前者よりも後者のほうが多くを占めている。  ポラニーはこの後者を暗黙知とよんだ。  つまり、野中(郁次郎:経営学者=一橋大学名誉教授)が「まだ言葉にされていない知識」を暗黙知と考えるのに対し、ポラニーは「言葉にすることができない知識」を暗黙知と考えた。

出典 ナビゲートナビゲート ビジネス基本用語集について

 

注2:近代文化はデカルトの科学的思考空始まったといってよいが、デカルトは身体と精神を二分し、後者の心を、前者の体の上位に位置ずけた。 (出典:外山滋比古著「ちょっとした勉強のコツ」)

 

我々は、通常、このような小脳の働きによる「暗黙知」よりも、大脳の働きに依る「言語知」の方を、いわゆる」「知(力)」だとしている。 デカルト以来の、いわば、慣行(慣用)である。 従って、学校などに於ける勉学の中心を、言語知に据えてきた。 ところが、パソコンなどを使い慣れてくると、段々に暗黙知の存在に気付くように成ってくる。 いや、「気付く」というよりも、再確認と言った方が良いだろう。

 

物覚えや覚えた内容の正確さという点では、我々は、到底、コンピュータの敵ではない。 しかし、誰もが認めるように、パソコンは壊れても、泣かない。

キチンと仕事が出来ても、乾杯はしない。 拍手は、もちろん、頭を撫でてくれることもないし、ご褒美のお小遣いを呉れるわけでもない。

 

人間、意気に感ずると、途方も無いことでもしでかす。 極端な例だと思うが、戦争中(古いなぁ)の日本帝陸海軍(そして、航空)の少年兵がそうだった。

私の先輩たちの間にも、そうして死んでいった奴が多くいる。 その「意気」もまた、小脳(暗黙知)の働きだと思う。 オリンピックの「金メダル」も、暗黙知が成し遂げた成果ではないと思う。 ノーベル賞の大半は、言語知に依るのかも知れないが、暗黙知が後ろから支えていたのだろう。

 

身体に覚えて貰う効果は、計り知れない。 日本工芸の技術者(匠)の技術は、言葉では伝承出来ないとも聞いている。 おそらく、剣道など武芸万般の極意も身体で克ち取ったものだと思う。 では、どのようにしたら、身体に覚えて貰えるだろう。 

 

私見ではあるが、身体に教える極意は、身体に教えることにあると思う。 昨今、暴力的教育に対する批判が盛んだが、この批判が行き過ぎるのを恐れる。 問題は、身体に叩き込む「力」がどこから来るか、にあるのだ。 力の根源が、他人であるのが問題なのである。 自らの内から湧き出る力によって、教えて貰うのが一番である。 つまり、自分の発意に依る「練習」、「修練」」、「繰り返し」こそが秘訣である。 

 

ちなみに、「自習」には、退屈なことが多い。 自習に「面白味」を加えることが、自発的復習を誘い易いから、「ゲーム化」したり、「芝居化」したり、また必ずしもベストとは言えないが、「利益付与」を試みる工夫も役立つと思う。 最近よく言う、「自分に対するご褒美」も、利益誘導のそうした工夫の一つだと思う。