鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

集団社会

~フアースト

ひところ、「XXファースト」と言う言葉が流行った。 アメリカでは、いまだにそう言っているご本尊がいる。 日本では、この言葉は廃れた。 元祖のXXフアーストの言い出しっぺが、セコンド、いや、サードに落ちぶれたからだ。

 

ファーストは、先頭、ないし一番を意味する。 では、後続、ないし二番以下をなんとする? 「排除する」か?  事実、XXファースト没落のキッカケは「排除」であいった。 「来る者を拒まぬ」姿勢でないと、人はついてこない.

 

ファーストは、自分第一の姿勢も示しており、他人を排除し、追っ払う姿勢をも意味している。 そんな自分勝手な奴について行く馬鹿な奴がいる筈もない。

 

社交

社交には、社会の存在が前提と成る。 社会の存在には、人間関係が前提と成る。 人間関係の成立には、人間の存在が不可欠である。 人間には、種類がある。 慌てもん、偏屈者、お調子もん、厳粛・謹厳者、だんまり、お喋り、軽薄者、等々;総じて「正常な」精神を持つ知的健常者と突然急性・恒常精神異常者、若年・老人認知病患者、等々、知的異常者との二種類に別れる。

 

知的健常者と知的異常者との間の交流が難しく、人間関係、引いては社会が構築し難いように、知的健常者同士の間でも、教養の程度・種類、生まれ育った環境の違い、言葉(方言=同国・異国)の違いなどによっても、人間関係の構築が難しくなることがある。 従って、そうした場合も社会の形成も難しくなる。 「肝胆相照らす間柄」は、互いに気心の知れた間では築き易くとも、そうでないと」、難しい。 

 

正常な精神を持つ知的健常者は、知的異常者とは、社交出来ない。 知的異常者には、労りを施し、哀れみ、情けを掛けることは出来ても、そうした関係は、いわゆる「人間関係」とは言えない。  

 

社交は、正常な人たちの間でのみ成立する。 相手が異常者である場合は、社交ではなくて、「労り(いたわり)」、「憐憫」、「思いやり」、「軽蔑・軽侮・貶む」、感情が作用して、対等な関係としての人間関係は成立しない。

 

この点も、私がブログを通して何度も指摘したように、老人ホームという小さな世界でも、健常・異常「混住」状態になっていると、人間関係はもとより、社会(温かい家庭のような環境!)そのものが成立しない。  こうした環境へ「自分の親を追い込む」には、相当の理由があるのであろう。

 

混住

このテーマを組織的に研究した人は少ない。 しかし、混住は明らかに居住者の生活に影響を及ぼす。 混住状態の高齢者の集団では、健常・異常のわりあいにもよるが、大体「住み分け」が行われる。 類は類を以って集まるのである。 概して、健常者の方が主導して住み分けを進め、異常者の方は、受身になる。

 

だが、健常者の割合が低いと、健常者は、「孤独化」し易い。 しかし、孤独の人自身が高齢者であると、数の多い異常者の影響が無くとも(メトロノーム現象もあるから)、生理的影響もあって、だんだんと異常化し易い。 結果として、健常者が少数派となり、「住み分け」化も希薄になって行く。 つまり、最近まで仲良く食後の団欒を楽しんでいた集団が消えて行く次第となる。

 

また、健常者が異常化する中途の段階の「半」健常・異常の境界にある人たちは、自分が受けた「労り」、「慰め」、「介助」に味をしめて(?)、異常者にも同様の労り、慰め、介抱を求めるよう「そそのかす(?)」ことがある。 この状態は、「甘え」を他の異常者たちへ伝播させる。 健常・異常の境界線上にある人は、混住状態の集団の中では「口コミ」の中心になるので、異常者の異常化を益々進める(勧める)効果を持つので、管理者は注意すべきである。

 

なお、殆んど全ての「介護付き有料老人ホーム」の入居資格は①自立、②要支援、③要介護、④認知応相談となっており、自立(健常者)、要支援(時に健常者)と他(要支援、要介護、認知症患者)の混住を前提として「介護」を引受るから、自分の親、親族を預ける側の家族、保証人、身元引受人は、親や親族を預けるに際しては注意すべきである。