鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

消え去った「談論風発」

談論風発」という言葉は、ありますが、最近は、とりわけ老人の世界には、その実態は無いように感じます。 それと言うのも、学生時代には居たような「風発」の相手が少なくなってきたからだと思います。

 

注: 盛んに語り論ずること。▽「風発」は風が吹くような盛んな勢いであること。

用例 

<岡本かの子・鶴は病みき>「ほとんどわめくようにマルクスだとかレーニンだとか談論風発を続け、果ては刻下の文壇をプチブル的、半死蛇等と罵ののしり立てる。

島崎藤村千曲川のスケッチ>「客が訪ねて行くと、(談論風発)する」

 

風発の相手が少なくなってきたのは、おそらく「同年齢」の仲間の数が減って来たからだと思いますが、その理由の最大のものは、彼等が死んでしまっている。 仮に生きているにしても、身体も気持ちも萎えて、外出をしなく成っている(寝たっきり!)。 しかし、それなら老人ホームのような「老人集会所」で生活すれば良いようなものですが、そうも行かないのです。 その他の理由としては、同趣味(例えば、ゴルフ、碁、将棋、麻雀、踊り、など)の人たちが少ない。 

 

同趣味の人が少ないのにも、それなりの理由がある筈です。 境遇(生活背景、育ち、教育程度、所属文化、所属地域、家産の程度、身分、等々)が違うのが、相互の交流を妨げているのでしょう。 相互交流(社会)が成り立っていなければ、談論を交わすこともありません。

 

その意味で、老人の世界は寂しい世界です。 共に立つ友達が、少ないのです。

いまさら、カントやマルクスも無いでしょう。 いまさら、自分の息子や娘とマルクス・レーニン主義を論じ立てますか?  文字通り「アホじゃなかろうか?」と識見を問われることにもなりかねません。 「友有った、遠方へ去った」。「我独り、ここに残る」。 

 

秋の空の下、木枯らしの吹く並木道を、タダ独りで歩いている。 遠くに、道の終わりらしい裸になった小さな墳墓のような丘が見えます。  友はいません。 ただ独りなのです。 静寂な、しかし体内の血流音とも、流れる風の音ともしれぬシュンシュンと音だけが聞こえます。 長い道のりでした。 既に終わろうとしています。

 

こうした静寂の世界、それが高齢者の世界なのです。 と言って、哀れみを乞うものではありません。 ただ、静かに(時には、騒ぎ立て)余生を生きるのみです。