鞍馬天狗

夢寐のたわごと

部分的傑物、偉人

上杉鷹山西郷隆盛のような全人格的な意味での偉人は、総ざらに居るものじゃない。 部分的な点での傑物なら、どの街にも、ざらに居る。 我々が本当に日常的に世話になるのは、部分的傑物である。 第一、全人的偉人には、お目に掛かること自体が至難である。 せいぜい本で読むぐらいである。 

 

かりに、全人的偉人から、「面(おもて)をあげよ」とご下命を頂いたにしても、そう簡単に顔が見られる相手じゃない。 だのに、何故、人は偉人を称え、すぐ隣にいる偉人を見逃するだろう。 讃えるべき人は、直ぐ貴方(貴女)の隣りにいる「おっさん」や「おばはん」かも知れない。

 

「掃いて捨てるほど」と言うのは言い過ぎだろうが、お世話になっているのは、たいてい街角の隣の「偉い人」だ。 人には、取るべき面もあれば、厭うべき面もある。 取るべき面を取り上げ、その人の取るべき面に注目して親しめば、その人は「傑」の面を容易に見せる筈である。

 

自省を込めて言うのだが、我々は他人の欠点をあげつらい易い。 知らず知らずの内に、競争しているのである。 他人を貶めることに依って、我高しと自己満足してしまうのではなかろうか? 

 

おそらく、他人を「褒める習慣」を身につければ、自ずから他人をけなす習慣も消えるのだろう。 「他人をけなすな」と戒めるよりも、「他人を褒める」ことを勧めるほうが、より実際的かも知れない。

 

しかし、他人を褒めることは、難しい。 他人を褒めることは、無意識に自分を貶めることに繋がる。 と言って、へりくだることは、わざとらしいし、他人の前では、白々しく見える。 じゃ、どうすれば良いんだ。 当面、筆者がお勧めする方法は、「自然に振る舞うこと」、つまり、「褒めもしなければ、貶しもしない」ことである。 だだ、自分をそのまま見せれば良いのであり、他人は、そのまま見れば良い。

 

。。。。。。お粗末さま(鉄道大臣)