鞍馬天狗

夢寐のたわごと

いまだ木鶏(もくけい)たり得ず モンゴリアン相撲⇒グローバル相撲(?)

そのむかし、中国のある王が、闘鶏用の自分のニワトリを、紀悄子という鶏育ての名人に、その鶏の育訓練を委託した。 10日ほど経過した時点で、王は、鶏の仕上がり具合について下問した。 すると紀悄子は、 『まだ空威張りだけで、闘争心を持っているから駄目です』 と答えた。  更に10日ほど経過して再度王が下問すると 『まだいけません。 他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立っています』と答えた。  更に10日経過したが、 『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』 と答えた。 さらに10日経過して王が下問すると 『もう良いでしょう。 他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。 まるで木鶏のように泰然自若としています。 この徳の前には、敵なう他の闘鶏は居ないでしょう』 と答えた。

 

荘子は、このように道に則した人物を、木鶏を隠喩として描き、真人(道を体得した人物)は他者に惑わされること無く、鎮座しているだけで衆人の範となるとしている。

 

木鶏という言葉はスポーツ選手に使用されることが多く、特に日本の格闘技相撲剣道柔道)選手が好んで使用する。 故横綱双葉山は、連勝が69で止まった時、「未だ木鶏たりえず」と安岡正篤に打電したというエピソードがある。これを踏まえて横綱白鵬は、連勝が63でとまった時に支度部屋で「いまだ木鶏たりえず、だな」と語った。。。。。。。。(ウイキペデイア)

 

この莊子よりの引用を読むと、横綱白鵬未だし、の感を禁じえない。 白鵬自身は、どう思っているのか知らないが、ある意味で、彼は自己撞着している。

 

いまだ木鶏に至らずと、自分で言っているようだが、彼の勝負の進め方(やり方、手口=取り口?)は、全く木鶏に至っていない。 私は、相撲にはあまり通じていないが、聞くところによると、白鵬は、勝負に勝つ為には、「猫騙し」、「肘押し(エルボー?)」など、横綱らしからぬ汚い取り口を使うらしい。 規定(ルール)違反ではないが、(不適切)なやり方では「得」にはなっても、「徳」とはならない。

 

相撲は、グローバル化しつつはあるが、発祥は、やはり日本である。 根底は日本の伝統の流れを汲むものであって欲しい。 木鶏の如き品格は保っていて欲しい。 相撲は身体がでかいだけの木偶の坊の唯の取っ組み合いであって欲しくない。 それなら、街の酔っぱらいの喧嘩沙汰で十分である。 相撲には、武士道、剣道、柔道、華道、気合、など、日本の伝統を継ぐ一脈の流れがある。

 

木鶏に備わる徳の流れである。 最近相撲の力士には、日本人以外のいろいろな民族の人が入り込んでいる。 彼等は喧嘩が好きで相撲界へ入ったのではないと思う。 日本の伝統の何かに惹かれるところがあったからこそ、日本の相撲界へ入ってきたのだと思う。 

 

相撲のグローバル化は、日本の伝統を、他所の国へ移し替える(Transplantする)ことではない。 グローバル化とは、日本の伝統を世界へ拡げることである。 その根は、あくまで日本に残る。