鞍馬天狗

夢寐のたわごと

去るものは、日々に疎(うと)し (万感、こもごも)

「去るものは、日々に疎し」とは、親しかった者も、遠ざかれば日々に交情が薄れてゆく、ことを言います。 私も、故郷へ帰ら(京都へ行か)なくなってから一年以上経ちました。 懐かしかった故郷の光景も、頭から消えてゆきそうです。 「去る」ものは、なにも距離ばかりではありません。 年月もそうです。

 

私には、あの大事だった父母、兄姉の姿・形ですら、ウロ覚えになっています。

寂しいことです。 私自身、子供たちは私のことを覚えてくれると思いますが、孫たちになると、心細い限りです。 事実、私自身、自分の祖父母のことは、全く記憶にありません。 姿形も記憶にないのです。

 

日曜祭日の日など、施設の玄関を、高校生らしい女の子と肩を並べて親しそうに寄り添いながら、外出してゆく老婆やお爺さんを、時に見かけることがあります。 その際のお婆さん、お爺さんは、いかにも楽しそうに、元気良く立ち去って行きます。 そうした迎えや誘いの無い老人たちは、物欲しそうな、羨ましそうな顔で、居残っています。

 

こうした老人たちも、いずれ忘れ去られるのです。 若者の時代が、ゆっくりゆっくりと忍び寄っているのです。 「光陰、矢の如し」といいます。 全くその通りです。 私が、壮年時代、ニューヨーク市に駐在し、世界各地を訪れたことは、文字通り、夢幻の如く、頭の中を去来しますが(これは嘘です。 病気のため、夢幻は浮かんで来なくなっています)、その思い出は、霧の彼方と記念写真の中にあります。

 

正に、歴史は流れます。 歴史は、道なのです。 経過なのです。 果てしなき巨大な水路なのです。 たゆたう水の流れとともに、全てを消し去ります。

人間の喜怒哀楽はもとより、時間も、距離も、宇宙も、この世界全体を消し去るのです。