鞍馬天狗

夢寐のたわごと

カラオケ

昔、中国の文人、欧陽脩という人が、良い考えに思い至る機会は「三上」にある、とを言ったと聞いている(読んでいる)。 すなわち、鞍上(あんじょう)、枕上(ちんじょう)、そして厠上(しじょう)である。 鞍上とは、馬の鞍に乗っている時、枕上にある時=ベッドの中で、厠上とは、厠=便所に居る時を意味するが、現代は、余所事を考えながら車を運転するのは、関西弁を踏まえた地口で言うなら、あんじょう運転できないから、自意識を持った馬か、他人が操縦する乗り物でなえれば、願い下げになる。 従って、現代なら、二上半というところだ。

 

このブログは、私が厠上にあったときに思いついた。 従って、少々、臭いかもしれない。 読んでくださる方はもちろん、書いている私も、臭いを覚悟で書いているので、少々の「胡散臭さ(うさんくささ)」は、織り込み済みとして、ご容赦頂きたい。 

 

私は、カラオケ屋へは、昔一度仲間に連れて行かれただけで、自分から進んで行ったことはない。 ところが、不運なことに、私の住む部屋は私が住む老人ホームの集会場所(食堂、ラウンジ)の直ぐ前にある。 週一回とはいうもののNHKののど自慢番組よろしく、ホームの仲間の(カラオケ)会が催される。

 

私は、歌を歌うのは、苦手である。 おそらく、歌えば、下手なのだろう。 この施設の仲間の中には、歌を歌うのが好きな奴、少し上手い奴、変哲もない奴らが居ると思うが、カラオケの日には、彼等が時には「合唱」、「斉唱」に及ぶ。 薄い入り口のドアーを通して、その合唱や斉唱が聞こえてくる。 そほどまでに、仲間や自分の死を悼む必要もないと思うが、まるで、「御詠歌」だな。

 

注1:ご詠歌(えいか)とは、仏教の教えを五・七・五・七・七の和歌と成し、旋律=に乗せて唱えるもの。 日本仏教において平安時代より伝わる宗教的伝統芸能の一つである。五七調あるいは七五調の詞に曲をつけたものを「和讃」(わさん)と呼ぶが、広い意味では両者を併せて「ご詠歌」として扱う。

(Web 辞典)

 

 注2:特定の音節をつけて霊場や札所で、特定の短歌を朗吟する巡礼歌が隆盛するのは中世末期以降とされる。 中世初期には西行慈円などの密教僧の間には、和歌は陀羅尼に相当するという「和歌陀羅尼観」が成立し、このような信仰が詠歌の流行の基盤となった。 また修験道や一部の密教僧には神仏を礼拝する際に和歌を陀羅尼として唱えることが行われ、中世の密教化した神道では、呪文としての和歌が「大事」と称され、唱えられていた。

 

注3:陀羅尼経(だらにきょう)「あに」→不思議なこと、珍しいこと…「まに」→思うところと言う意…「まね」→念とは、繰り返し思うこと…「ままね」→自得すれば無意となる、次第に慣れれば意識しないで自然に出来る…「しれ」→永久のことを考えること(来世の事)…「しゃりて」→所行とは仏のなさる行い奉修とは仏の所行を自分の範として修行すること…「しやみて」→変化差別の中に不変化永久の理の存在すること…「しゃび」→物事に囚われない状態をいう…「たい」→人に恩をほどこし又救ってさらりと忘れる。

(ある坊主)

 

私は、歌うのは苦手だが、聞くのは好きである。 それじゃ、「御詠歌」を聞くのを嫌うのと矛盾しはしないか、と謗られる方々もおられようが、決してそうではない。 下手な、微睡む(まどろむ)ような、スローで、揺蕩う(たゆたう)感じが好かんのである。 起きているときは、シャッキリと起きていたい。

 

では、どのような歌が好きなのか?  歌に限って言えば、もちろん上手な歌である。 プロの歌う歌が良いと言いたいところだが、同じプロでも最近はやりの「騒ぎ」は好きじゃない。 生まれた年代の故もあるだろうが、昭和初期の鶯芸者歌手(格好が良いし、声も透き通り、鍛えられている)が歌う歌、その頃の歌(哀愁が漂っている、詞の意味が良い)、そして特定歌手の歌(例えば、美空ひばり島倉千代子)。

 

こう考えてゆくと、もっぱら、女性歌手を好んでいるようだが、それもその筈、筆者は、老いているとは言え、男性である。 女性歌手でも、美空と島倉が、ダントツに好きである。 とくに、もう死んじゃったから言うのではないが、島倉の好き通った声が良い。 美空は、いわば、歌の秀才、島倉は、歌の天才だと思う。 美空が秀才だという訳は、声、歌い方(仕草=踊りを含めて)が、鍛錬(修練)の結果もたらされたものである、と感じるから。

 

島倉を天才とする訳は、彼女の声の質が天与のものと感じるからである。 あの声は、いくら美空が裏声を自由に取り混ぜようとも、到底、及ぶ声ではない。