鞍馬天狗

夢寐のたわごと

汽車 ポッポ

私が生まれ育った生家は、旧日本国有鉄道国鉄=JR)の駅の傍にあった。 山陰線の京都駅から数えて三つ目の駅である。 京都駅、丹波口(現在は、貨物専用駅)、二条駅の順にあった(厳密には二つ目)。 その先は、花園、嵯峨、と続く。 嵯峨(現嵐山)は、平安朝の昔から、貴族の別荘地であった。 この土地は、現在でも観光地(渡月橋)として有名であり、京都市内の一部と考えられる。

 

私は、小さい頃から、汽車が好きであった。 安物のブリキ細工の汽車を買って貰って、それに跨り(またがり=跨いで)、「ポッポ、ポッポ」とよく遊んだ。

因みに(ちなみに)、当時は、日本製の品物は、「安物」で、アメリカやイギリス、その他ヨーロッパの製品の紛い物(コピー)として有名であった。 「メイド・イン・ジャパン」は、安物のコピー製品の代名詞として、世界に(?)知れ渡っていた(あまり、現代の中国や韓国を責められんなぁ)。 今日の日本製品と比べると雲泥の差である。

 

進歩は、模倣に始まる。 だから、昔から「学ぶ(まねる)」と言う。 学校でもまず教わるのは、先生のすること、やることを真似ることから、始まっている。 尤も、現代のように、教わる人間の数が増え、資格ある教師の数が少ないと、教科書と言う代行者(物)を作って、教師の仕事の一部を助けることになる。

 

教わる者の数が多いと、生徒を、例えば、講堂や教室へ一堂に集めて、教師一人(独り)で、教科書に沿って、昔の「汽車ポッポ」よろしく、機関車(教師)が多くの客車(生徒)を引っ張ってゆく次第となる。 教科書は、レールである。 引っ張られる何台もの客車は、脱線しないように、教師に見守られながら、ぞろぞろとついて行く。 ♬ 汽笛一声、新橋を! 我が汽車は離れたり~ ♬。 壮観である。 汽笛を鳴らす、教師の心底や、如何ならん。

 

私が棲む老人ホームでも、時に、入居者の希望者(誰が希望する? おそらく、大半はボケており、自ら希望する意思は持たないから、保護者=身元引受人の希望で)、が、一団となって遠出することがある。  不幸(?)にして、筆者が紛れ込むこともある。 そこで、問題が起こる。 筆者は、自意識を持ち、かつ、へそ曲がりである。 団体行動は、気に食わない。 勝手に動き回る。

 

食事が終わって、さて全員を集めようとすると、筆者が居ない。 どこへ行った? 困ったものだ。 指揮者(?)が、探す。 漸く、ホームの方へ電話して、筆者の携帯電話の番号を聞き出す。 

 

教師(指揮者:リーダー)と言うものは因果な役割である。 相手が成人であると尚更である。 手に負えない。 そりゃそうだ。 引っ張っている客車一台一台にエンジンが付いている。 旧式の釜炊き蒸気機関車では、引っ張りようがない。 おとなしそうな顔をしていても、時宜を見て、すぐに自儘行動に走る。 もはや、汽車ポッポではないのである。 中には、新幹線も居る。

 

レールには、狭軌広軌がある。 広軌用のレールでないと、走らない自分勝手に動く電車もいる。 広軌レールは、幅が広い。 決まりきった路線では、収まらない。 定番がアカンのである。 広軌用電車を、狭軌レールに走らせようものなら、直ぐに脱線する。 

 

では、広軌レールなら、自儘電車はチャント走れるのか、といえば、そうでもない。 他のポンコツと一緒に団体の一部になって行動するのも、広軌レールに慣れないからである。 そりゃそうでしょう。 行ったこともない観光地や、レストラン、 へは、「連れて行って貰う」のが、一番楽ですから。 おまけに、施設専用のバスを使うのだから。