鞍馬天狗

夢寐のたわごと

京都五花街

東京に、六花街(新橋、神楽坂、向島芳町柳橋、浅草)、大阪に、四花街(北新地、新町、堀江、宗右衛門町)あるが、京都五花街が群を抜いている。 京都の五花街は、地域的に固まっている四花街(祇園東、宮川町、先斗町祇園甲部)、そして地域的に、遠く離れた北七軒が一体となっている。 これら五花街は踊りの会なども共同して催すことも少なくない。 やはり、京都は、花街発祥の地である。

 

「芸は売っても、身は売らぬ」のが、藝妓の身上(心情=心意気)である。 その京都へ勇敢にも、乗り込んできた外地(?)の青年があった。 東京からの長田幹彦である。

 

注:長田幹彦:東京生まれで、劇作家の長田秀雄の弟。 1904年明治37年)3月に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属高等学校)卒業。 早稲田大学英文科卒業。 兄の影響で『明星』や『スバル』に参加。(中略) 当時新進の谷崎潤一郎と共に耽美的作風を併称され、幹彦潤一郎と呼ばれた。 (中略) 1913年(大正2年)の『祇園情話』などの「祇園もの」でも人気を博したが、1916年(大正5年)、赤木桁平から「遊蕩文学」として攻撃された。 多量の作品を書いたが、次第に文壇の最前線から遠ざかった。昭和に入るとビクター専属の作詞家となり、「祇園小唄」「島の娘」などを作詞。。。。。。。。。。。。。。。。。(Web 辞書)

 

長田幹彦は、注記にもあるように、「祇園小唄」を作詞したが、これが祇園藝妓、舞妓の踊りの定番となった。 藝妓や舞妓は、歌は歌わない(踊りながら、小声で呟くように歌っている=口を合わせている藝妓や舞妓もいる)。 

 

祇園小唄は、定番化したとは言うものの、時と場合(八坂=やさか=神社の祭事、など)、そして人(踊り手と演奏者)に依っては、「味付け」が違うことがある。 スロー・テンポのときもあれば、踊りの仕草(踊りの最中に座ったりする演出もある)が違うこともある。 先に、京都の五花街の藝妓・舞妓は、一体化していると述べたが、素人の私が見たところ、北七軒の芸姑・舞妓の踊りは、宮川町の踊りほど、闊達ではない。 どちらかと言えば、おっとり、ゆっくりしている。

 

筆者は、京都に生まれ育ったとは言うものの、これら五花街を見聞し、遊び回るほど、裕福ではなかった。 以上、あたかも、見てきたような「嘘?」が言えるのも、パソコンという便利な玩具の存在を私の娘が教えて呉れたからである。 パソコンには、多くの動画が記録されている。 この動画こそ、筆者の宝の山である。 音曲は、ヘッドフォンを使えば、聞くことができる。 踊りそのものも、音曲入で、動画で見ることができる。 私は、現在、横浜の老人ホームに住んでいるが、一々、踊りの見索に京都へ帰る必要もない。

 

仲間の老人たちを見ていると、哀れである。 彼等の殆ど全員が、パソコンを操作できない。 従って、彼等の多くが、日本舞踊を見たくとも、見ることが出来ない。 せいぜい、月に2~3回配達されるXXX演舞場の弁当を食べるぐらいである。 誰か、若者が助てやれば良い、とは思うものの、「要らざるお節介」かとも、思う。

 

じゃや、好きなら、自前でやれば良いじゃないか、と思うが、老人たちには、パソコン操作の知恵も、意欲もない。 そのくせ、テレビは持っている。 ときに、随分大きなテレビだな、と感心するほどの大型テレビを、自分の子供に買って貰っている老人もいる。 

 

翻って、横浜の老人ホームに住む私でも幸せだ。 随時、故郷(京都)へ帰る事もできるし、昔、住んだことのあるニューヨークへ、テロに遭う恐れなしに、散歩に出かける事もできる。 それ以上に、家族(子供たち)と自由に通信し合えるし、家族が海外旅行中であっても、瞬時に連絡し合うこともできる。 正に、パソコン、様々だな。 漸く老境に達して、金もないのに、祇園で芸者遊びとは、乙(おつ)のものだね。 若い頃は、仕事に精一杯で、とても芸者遊びどころではなかった。 子供の頃、話には、よく聞いていた祇園上七軒へ行ってみようじゃないか!