鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

老人ホーム内の小集団(3)

終の住処

殆どの入居者は、本人が自覚しているか否かに関わらず、この施設を終の住処にしている。 家族たちも、何気なくそう予想していると思われる。 小集団のメンバーも、いつの間にか代わっている。 施設は、入居者の死を他の入居者には伝えないから、文字通り、入居者は「人知れず死んで行く」訳である。 と言って、路傍にのたれ死んでいる訳ではない。 仲間は、見取りはしないが、隣の部屋で静かに休んでいる。 互いに黙って、さようなら、という訳である。

 

小集団のヘゲモニーが、たまたま夫婦同居で入居していて、夫の方がボケたり、認知症であったりしても、夫が健在(?)である場合には、その妻(入居者)が握る事が多い。 そうした場合、仮に夫が先立っても、妻のヘゲモニーがそのまま維持されているようだ。 その妻は、仮にヘゲモニーを失ってにも、少なくとも、他の入居者の介入を許さない独(孤)立者として、居住している。

 

入居者去来

施設の玄関先に居ると、色々なことが観察される。 人工透析治療のために、絶えず、頻繁に病院(?)通いする入居者、休日になると楽しそうに肩を寄せ合って玄関を出てゆく老婆(老爺)と娘(孫?)、小さい子供(孫たち)を連れてやってくる家族、サイレンとストレッチャー(担架)と共にやってくる何人かの救急隊員の一団、しかも、今日は大晦日。 ラウンジの中央に車椅子に載せられて、事情を知る由もなく、ポツンと座る老人、悲喜こもごも、施設の出入りは激しい。

 

「隣の人は、何する人ぞ」状態で、住んでいるハーモニカ(棟割)長屋の住人には、娯楽が少ない。 施設側でも、入居者への娯楽の提供に苦心しているが、案外、娯楽が見つからない。 良く試みられるのが、「外出イベント」である。

 

しかし、外出は、金銭の支出を伴うイベントになり易い。 金銭負担となると、一人ずつのヘルパーが必要な車椅子利用者、二本足で歩けても、徘徊・彷徨の恐れのあるボケ老人、認知症患者、100%自立の健常入居者、の一団を伴っての外出であるから、各人(の家族の)金銭負担の割合も、まちまちである。

 

参加者(居住者)たちのコントロールに加えて、外出先での事件や事故の発生、入居者の介護を委託した家族たちにも、気を配っていなければならないから、施設側でも、用心、配慮、警戒、ありとあらゆる心(気)使いを重ねて計画を練って、建てることになる。

 

あまり大きな費用負担を伴わない娯楽となると、将棋、碁、トランプ、麻雀、双六、花札百人一首、その他のボードゲーム、など相手を必要とするゲーム類が予想されるが、小集団の内外にそうした好事家(?)を発見するのが難しい。 そこで、ヘルパーの声掛けで、相手を必要としない独り遊び(お手玉、漢字遊び、等)の参加者メンバーを集めることになる。

 

ヘルパーの配慮と視線 

こうした入居者を見守り、介護するヘルパーたちも、それなりに気を配っている。 だが、よほど経験を積んだヘルパーでない限り、気配りが自分中心になってしまう。 入居者視線の配慮ではないのである。 従って、「要らざる」お節介に流れ易い。 よくあるお節介は、特に冬場に多いのだが、入居者も家族買って呉れたであろう数多くの電機器具(加湿器、足マッサージ機、足湯、卓上電灯、携帯電話、電動歯ブラシ、など)を使っている。 しかし、これらの電気器具を自分でチャント扱える入居者は、少なく、これらの故障、修復、取替、を行える入居者は、一層少ない。 従って、これをボケ老人、認知症患者に代ってやらなければならないヘルパーの仕事は、多様な重責である。

 

ある意味で、ヘルパーには入居者の「生活全般」について、ヘルプする必要がある。 最近、外国人ヘルパーの導入の話を聞くようになったが、この発想は一見、良さそうに思えるが、介護の対象は、外国人には容易に想像出来ない、日本人の生活のあり方、それも、一昔も、二昔も前の日本人の生活模様に根ざしたものである。 そんな昔の日本人の生活模様を外国人には知る由もないから、この発想は、政府役人の「机上の発(妄)想」に違いない。 老人ホームのヘルピングは、際立った、一筋縄では熟せない(こなせない)専門職である。 中途半端な「ちょい慣れヘルパー」が容易に熟せる職務ではない。 政府役人を始め、老人ホーム経営者、管理者たちは、「視線を変える」必要がある。