鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

個人と機構(2)

「赤信号、皆で渡れば怖くない」と言う習慣(?)から「赤信号なら、自分は渡らない」の心境に達するには、相当な自制心が必要だ。 ましてや「赤信号なら、皆も渡らせない」域に達するには、自制心どころかリーダーシップ(?)もしくは、高い品格、徳性が必要になる。 

 

得てして、人間は周囲に引きずられる。 周囲の有り様如何に拘らず、自らを持すためには、強力な自立姓、いや断固とした主体性の確立が必要である。 「氏より、育ち」と言うが、そうした確固たる主体性の確立は、子供の頃からの躾、見習、に依るのではないだろうか。 「孟母三遷」の教えもある。

 

注1:もうぼさんせんのおしえ【孟母三遷の教え】

「列女伝」から。 孟子の母が、はじめ墓所の近くに住んでいたところ、孟子が葬式のまねをして遊ぶので市中に引っ越した。 今度は商売のまねをするので学校のそばに引っ越した。 すると礼儀作法を真似たので、そこに居を定めたという故事による。 教育には環境からの感化が大きいという教え。

出典 三省堂大辞林 第三版 

 

注2:私見だが、こうした強烈な信念(?)は、宗教上のものである場合もあるようだ。 例えば、江戸時代のキリシタン殉教者、特定の確信犯、また、クリント・イーストウッドは、自分が監督・主演する映画に、こうしたクリスチャン精神に溢れる人物を登場させることが多い。

 

巨大な機構の中にあっては、自らを持することは難しい。 そうした揺るがぬ自分を保って、周囲を引きずった人物としては、寡聞ではあるが、私は、暦史上の人物、上杉鷹山を挙げる。 彼は、伝わるところに依ると、幕閣からの強い圧力に耐えつつ、家来・領民を救っている。 それどころか、貧乏に喘いでいた自藩の財政を立て直し、豊かな藩へとすら変貌させてしまった。

 

Ethical strength(道徳的堅固さ)は、「赤信号なら、皆も渡らせない」品性として示されるが、それには何よりも堅固な主体性、もしくは深い信仰が必要であると思う。 神仏に頼る宗教心の薄れている今日、これを復興させるものは、繰り返すが、自らの「主体性の確立」であると思う。 「主体性」は、自分第一主義ではない。 単なる自立性や自律性でもない。 自分で、自分のあるべき姿を定め、自分の進むべき道を、自ら決めることである。 言い換えれば、堅固な道徳心である。

 

私は、そのような道徳心や主体性は、単に修身法の説教を聞くことではなく、その見本(範=手本)を見習う(まねる)ことに依って育つと思う。 実際にそうした品性や徳性の高い、主体性の確立した人物に接する機会に恵まれないのなら、読物(本)や映像(パソコン)に求めることができる。 伝記や映画こそ、その意味での現代の宝庫である。

 

伝記本といえば、艱難辛苦を、堅固な道徳心、宗教心を持って、生き通してきた人物の評伝も少なくない。 今日でも、子供やあなたの教育には、評伝は事欠かないと思う。 アナクロニズムと言えばそうだが、また、誤伝といえばそうかもしれないし、作話として片付けることもできるだろうが、私は、大楠公の正行への教訓(太平記)から学んだし、二宮金次郎から大きく学び、育った。

 

これは、やたらに天皇への忠誠を鼓吹するものでもなく、古びた「修」「身」を説くものではない。 「古風」の中にも、学ぶべきところはある、といっているので、パソコンやスマホばかりが全てではない。 「温故知新」と古い昔の中国人(孔子)も言っている。 私は、採るべきは採る、それが現代風であると思う。 学ぶについても、主体性は失ってはならない。 「皆が渡っても」、あなたは渡るに及ばない。

 

注: 温故知新(おんこちしん):温「古」知新と書くのは誤り。(故きを温ねて新しきを知る ⇒来を知らんと欲する者は往を察す。)

意味:昔のことをよく学び、そこから新しい知識や道理を得ること。 または、昔の事柄を研究して、現在の事態に対処すること。

出典:論語