鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

青葉の笛(伝承=伝聞)

♬ 一の谷の、戦(いくさ)破れ 討たれし平家の公達、哀れ ♬ (尋常小学校唱歌:大和田建樹作詞=明治39年) アナクロニズムの誹りを恐れず、今日、鎌倉時代の人間に現代語、江戸期の言語を語らせるのには、いささか汗顔の気味は残るが、この時代には、筆者の両親はもとより、筆者の爺さん婆さん、爺爺さん、婆婆さんもこの世に生存していなかったから、やむをえぬ次第である。

 

さて、少年講談の始まり!!! (平家物語より):

 

別働隊として、一の谷の頂上(崖上)に来たった源義経の一隊の中に、かの有名な熊谷の直実も居た、「鹿が降りられる崖なら、馬でも降りられる筈だ」と意を決して、ヒヨドリが飛び交う崖を駆け降りると、眼前の須磨の浦(瀬戸内海)の海上を逸散に逃げゆく平家の部隊が見える。 見れば、黒糸緋縅の「美々しい」鎧兜に身を固めた武者がいる。 良い敵だ。この男を討ち取れば、定めし手柄とならん。 「敵に後ろを見せるとは、卑怯でありましょう。 お戻りあれ!」と大音声で呼びかけると、その武者、馬頭を翻して、岸辺へ戻ってきた。 

 

組み打つ内に、直実の力や勝りけん、ムンズとこの武者を組み敷き、兜を引きちぎった。 「やゃ! この武者、自分の息子とほぼ同年の若い眉毛に青黛を塗った年若い公達であった」。 直実、武士の情けじゃ「さぁ、逃れられよ」と、一旦は許そうとしたが、味方の衆目の見る処、そうも行かない。 「では、名を名乗られよ」。 「吾は、名乗るほどの者ではない。 討ち取りたる後、実検為されれば、自ずと知れよう」。

 

この辺りで、明治39年発表のこの唱歌を歌った女子児童たちは、「紅涙」を絞った。 作詞家、大和田氏は、この歌詞の中で何回も「哀れ」という言葉を述べている。 嫌でも、哀れと思わざるを得ない。

 

ともあれ、後日の首実検で、この武者は、平の清盛の甥、平の敦盛であると知れた。 しかも、自らが笛の名手と謳われていたがため、奥ゆかしくも、己の甲冑の箙(エビラ)に、昔、祖父、平忠盛が、鳥羽天皇よリ賜った平和(不戦)の証である笛(青葉、または小枝)を譲り受け、指していた。 

 

余談になるが、熊谷直実は、これを機に出家を志すことになる。