鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

見てきたような嘘を言う

山本周五郎池上正太郎、藤沢周平、等、時代小説作家の作品を読み過ぎたのでしょうか、「武士の剣闘」に於ける「間合いを読む」ということが、常に気になっています。 「間合いを読む」とは、私の理解では(啐啄=そったく)のことです。 啐啄とは、すなわち、母鳥が卵の外側から殻を突くのと、子鶏が卵の内側からも、母親の「つつき」に相呼応して、殻をつつくこと(「啐啄同時」と言うこともある)母鶏・子鶏、双方の「つつき」合いです。

 

私が棲む老人ホームでは、毎朝、血圧と体温測定のため、ヘルパーが「頃合い」を見計らって、各部屋(大抵、まだ電灯は付けていませんが)をノックして、訪れます。 各部屋のドアーには、「覗き窓」は、付いていません。 ヘルパーがドアー・ノックの「頃合い」を見定めるのが難しいのです。 着替え真っ最中のスッピン状態のところで、ドアー・ノックをされると往生します。 特に、老婆の場合はいけません。 老いさらばえた皺だらけの老長けた­(臈闌けた)スッピンの体を他人に見せる(?)のですから、当然、双方共にうろたえます。 この訪れるヘルパーが、男のヘルパーの場合は事態が最悪になります。

 

この「啐啄の機」を見計らう熟練は、大学教育では得られません。 得られないどころか、多くの場合、大卒はダメです。 間合いが、極めて悪いのです。 キツク言えば「間に合わない」のです。 その点、熟練した、経験豊富なおばさんヘルパーは、給料を貰っているだけのことはしています。

 

武士の剣闘において、「えい、やーと、間合いを見計らうこと」は、生命に関わる重大事です。 封建時代でなくて良かったと胸なでおろすのは、早計です。 やんごとなき老婆たちにとっては、間合いは相も変わらず、一大事なのです。 風呂サービスの浴室内での介護に、おっさんヘルパーを拒否する気持ちだけは、うら若き老婆にも相変わらず備わっているのです。

 

「間に合わない」、「間抜け」、「間が持てない」、「間に合ってる」、などなど、間は、多くの日本語表現に見られます。 「間?」。 そりゃ、英語のスペースのことだろう、などと間の抜けたこと言っているようでは、日本文化の中では収まらないのです。 日本文化は、「義理と人情」の文化です。 「理屈」の世界は、他所にあります。 ♬ 銀杏返しに、黒繻子掛けて ♬ の文化なのです。