鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

人生の発想の転換 (移動の便)

人生、100年が語られるように成ってきている。 人生観の枠組の基本が変わってきているのである。 このことは、未曾有の「社会革命」の到来を意味している。 従来は、固定された「老人観」:背を曲げ、杖を突き、トボトボと歩く老人が存在した。 このような固定観念に基づいて、行政は、次のように老人(高齢者)を定義している。

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人口統計における区分[編集]

各種公的機関が行う人口調査では、64歳以下を「現役世代」(5歳以下を乳幼児、6~14歳を児童、15~34歳を青年、35~64歳を壮年)、65~74歳を「前期高齢者」、75歳以上を「後期高齢者」と区分している[4]。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ウイキペデイア)

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老人の体力が、衰える傾向にあることは認めよう。 足腰が衰えがちで、移動に不便を感じていることは否めない。 その証拠に、「杖」を突いて歩く老人は少なくない。 しかし、あれほど不必要なまでに「老人保護・介護」を叫ぶ行政(若造)や世間も、老人の移動の便を図ろうとはしない。 杖を奪おうとはするが、代わりを与えようとはしない。

 

唯一、「コーテシィ・シート(優遇席=優先席)」を設える(しつらえる)公共交通機関(電車・路線バス)も、誰が為に、優先席を設えているのか、が不明である。 混み合う電車の中で優先席に、足を長々と伸ばして、スマホにいそしむ若者は数知れない。 

 

タクシー、JR、私鉄(電車、路線バス)の「乗車料金」割引も、身体障害者には認めても、足腰の弱った高齢者には、認めようとしない。 行政(若造)が、ヘルプの手を差し伸べるのなら、「その手は必要とする相手に伸べる」べきで、そんな手を必要としない若者に伸ばすとは、見当違いも甚だしい。 行政(若造)は、ここでも「一汽車(ひときしゃ)」乗り遅れて居る。

 

世間、行政(若造)の「後手(ごて)ごて」振りは、老人にたいする固定観念に依るところが大きい。 「年寄りは、静かに家で寝ておれ」と考える従来の老人観が、そうした姑息な見方を生んでいるのである。 年寄りといえども、飯は食う。 屁(へ)も放(こ)けば、糞もたれる。 他の人と変わらぬ消費もする。 それどころか、医療費という余分の金も使う。

 

「金が無いのは、首がないのと同じ」。 首が無ければ、生きられない。 老人も生きている。 生きていからには、生活がある。 しかも、その生活が、子(若者)のそれよりも大きいことが、ママである。 子がおれば、孫も居る。 可愛い孫には、「良い顔」もしたい。  良い顔するには、「金が入る」。 その金ですら「自儘(じまま)」ならないことも少なくない。

 

子は大人になるまで親に頼るが、親が子に頼るのは、みっともない。 ましてや、人生の枠が伸びた今、子に頼ることなど、考えたくもない。 人生の枠が100歳まで伸びた今日このごろでは、親にもまた(まだ)、自活の必要がある。 座業の必要が、そこにある。 人手不足を嘆くのは、行政(若造)の怠慢であり、その怠慢の太鼓を持つ世間には、知恵も無ければ心もない。 人生の枠が、100歳まで伸び広がった現代では、充分な「伸び代(のびしろ)」が生まれている。

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のび しろ [0] 【伸び代】 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(三省堂大辞林

1.金属などが折り曲げられる際に発生する伸び。また,その長さ

2.転じて組織人間発展成長してゆく可能性大きさをいう。

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若者(行政)に望むのは、「親を預けたい老人ホーム」などと、世迷言を言う暇に、健やか(すこやか)に生きる老人の幸いを寿ぐ(ことほぐ)ことである。 老人の幸いとは、発展・進歩した世間(世界)と元気に働く(生きる)子孫を見ることに尽き、後は、若者同様、「楽(らく)もしたい」し、「旨いもの」も食いたい。 

 

満州帝国建国の理念の片棒を担ぐわけではないが、「覇(は)」ではなくて、本当の意味での「徳(とく)」を持って慕われる「王道楽土」に生きたいのが、大抵の老人の夢である。 大抵の長生きする老人は、下手な「親を預けたくなる老人ホーム」入れて貰うことではなくて、何事も「善き(よき)に計らって貰えるホーム」で、ゆったりと「自分ペース」で動き、働ける高齢者共同体に棲むことを望んでいる。