鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

情報過多

近頃は、情報が多くて、手に負えなく成ってきている。 この歳(90歳前)になって、パソコン教室へ通い始めたが、教室で教えてくれる「新」情報の多いのには、往生している。 なんで、「金」を払って、こんなに多い情報に責められるのか、訳が分からん。 

 

考えてみると、パソコンに関する情報が欲しくて、金を払って、「勉強(?)=新情報獲得」のをために教室へきているのであるが、「講義メモ」、「教科書」、云々、と情報が、否応無しに増える。 講義メモは、とったにしても、後で見直すわけでもない(少なくとも、私=自分は)。 取ったメモの多くの部分は、結局は、見直すこともなく、捨ててしまうことに成る。 。

 

次に、「教科書」だが、教科書に盛り込まれた情報は、教室の側で、授業の手がかりとして準備したものだと思うが、そうした情報(群)の相当部分が、受講生の立場から見ると、必ずしも必要とする情報ではない。 かつ、情報群の組み立て(つまり、教室が準備した情報の構成=教科書の内容)そのものが、教室側の都合で作られている。 

 

言い換えると、教科書に従って学習することは、生徒にとっては、他人が作ったレールに乗せられて、自分(生徒)が走ることのであり、生徒をそうさせる為に、教科書は、先方(先生=教室側)にとって便利、かつ適切に作られている訳だ(教科書は授業料とは別売りに成っているから、営業成績を挙げる目的も、少しは加わっているかも知れない)。

 

こう考えてくると、教科書には、「自分」の利益が、あまり含まれていないことに気付く。 端的にいうと、教科書化されたレール(教科書、講義メモ)には、「自分」は無い。 ところが、情報(の意味)は、自分の為に求めている。

 

情報は、何のために求めるのか、長い話を短くして言えば、要するに「自分」のために求めている。 「自分」が関与せず、関係もしない情報には、意味がない。 そんな情報を求めることにも、意味がない。 つまり、情報は、自分自身で求めるのが一番。 では、何処に自分の情報源がある? 何処で自分のための情報を求めればよいのか?

  

自分の情報は、自分にある。 考えてみれば、自分の体験、つまり、自分が直(じか=直接)に見たこと、自分が直に聞いたこと、自分が直に触ったこと、自分が味わったことが、まず、自分の情報である。 これを一次元の情報だとすれば、次いで自分が読み、聞いた二次元の伝聞した情報がある。 もちろん、伝聞と言へども、確認とはいえないまでも、「自分でも納得した」伝聞であることが望ましい。 伝聞の伝聞、つまり、単なる噂は、「自分の」情報と呼ぶには、程遠い。 「自分の情報」と言い得る情報は、せいぜいのところ自分でも納得できる二次元情報止まりである。

 

少なくとも「自分の(興味・関心)」を基準にして、情報を選別している限り、情報過多から免れることが出来る。 諄い(くどい)ようだが、「自分(の納得)」を基準にして情報を選ぶ限り、全ての情報が、「自分の」ものである。 従って、無駄な情報が無くなってくる。

 

では、「新しい」情報の発見・探索は、どうする? 憚り(はばかり)ながら、私の90年近い人生の経験から言うと、この為には、まず自分に基準に据えて、「自分の」興味・関心の幅を拡げ、深めて行くのが効果的だと思う。 外出、旅行、や読書、観劇や映画・テレビの鑑賞を通しての自分の立場で見た新しい情報と新情報発見、および既得の知識・情報の修正も、自分を成長させる為には有効であると思う。

 

決して「我」を通せと言うわけで無いが、何事にまれ、自分を失なわず、自分を納得させることが大切である。 情報選別も例外ではない。 射手は、自分である。 従って、情報選別についても、的(基準)は「自分で据える」必要がある。 自分が納得出来るなら、「我」をも曲げるべきである。 

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ちなみに、私は、「自分」や「我」を超越するもの、誕生直後の「自分の意識」が形成される以前のもの、自分の心の背後にあるもの、父母や先祖から受け継いだもの、が存在すると措定して、私はこれを「主体性」と名付けています。 

私は、この主体性の確認・確立が、全ての前提であると感じています。