鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

「やる」と「もらう」

「やる」も「貰う」も、物事が、一方から他方へ移ることを意味しますが、その背後に、微かに「優位性」と「劣位」の身分感(立場感)を漂わせています。 やる方が優位にあり、貰う方が劣位にある感じ(気分)です。

 

この感じは、言葉自体に内在すると言うよりも、この言葉を使う「状況=事態」に漂っているようです。 例えば、「小遣いをやる」と言えば、目上の者(持てる者)が、目下の者(持たざる者)に与える気分を漂わせていますが、これは言葉の故ではなくて、既に、「目上(持っている)」なり、「目下(持って無い)」なりの身分(立場)が確定している状態で、この言葉が使われているからです。

 

嫁にやるのは、嫁(の材料)を持っている方で、嫁をもらうのは、まだ嫁を持っていない方です。 言い換えると、実家の方が婚家よりも、上位にあるので一方(実家)が「やり」、他方(婚家)が「もらう」のです。 この点についてさらに考えを進めると、背後に「家族」、「家系」などの問題があることに気付きます。

 

「やる」と「もらう」は、微々たる言葉の問題と受け取られるかも知れませんが、その背景には、長年に渡って、この言葉が使われてきた歴史、文化があります。 その文化の歴史に思いを致すと、文字通り「感無量」と言わざるを得ません。

 

こう書き進める内に、私が感じているのは、例の「土俵には、女は上げない」と言う「いわゆる伝統」です。 この事実は、言葉は飾っていますが、要するに「男尊女卑」の伝統のことを言っているのです。 相撲協会など、相撲関係者たちは、「相撲は男尊女卑の世界だ」と宣言しているのです。

 

口では、「民主主義」、「男女平等」を易々と唱えますが、「伝統」を重んずると主張する人たちの多くは、封建的なのです。 戦争に敗れても、「山河」は残っています。 戦前の、明治の、江戸時代の、心映えが残っているのです。 民主主義は日本の物ではないのです。 ヨーロッパ製の思想なのです。

 

3人の「女の子」を持つ父親は、我が子たちの将来を考えると、暗然とします。