鞍馬天狗

夢寐のたわごと

居丈高(いたけだか)

居丈高とは、人(他人)を威圧するような態度を採るさま。 

居丈高は、威丈高とも表記されるが、威は意味から来た当て字である。 「居」が正しい。

居は所在するという意味で、元々、座っている様を表す。 座って背筋を伸ばし、相手を見下す状態を言う。 丁度、鶏の雄が、鶏冠を振りたて、威力を示そうと(空威張り)する姿勢を言う。

・・・・(以上、ウイキペデイアより編集)

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XX 太郎(XXX たろう、1940年〈昭和15年〉9月20日 - )は、日本の政治家、実業家。財務大臣(第17・18・19代)、副総理、内閣府特命担当大臣(金融担当)、デフレ脱却担当、志公会XX派)会長、自民党たばこ議員連盟顧問。 自由民主党所属の衆議院議員(13期)、内閣総理大臣(第92代)、経済企画庁長官(第53代)、経済財政政策担当大臣(第2代)、総務大臣(第3代・第4代・第5代)、外務大臣(第138代・第139代)、衆議院外務委員長、自由民主党政務調査会長(第44代)、自由民主党幹事長(第40代・第42代 ...・・・・・・・・・・(Web)

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この男、海外出張なども多く、よくテレビ放送では、(異様な)姿で登場する。

雄鶏のトサカを思わせる「ハット」を斜めにして頭に載せたヤクザっぽい姿で、我々の国日本国を外国で代表するのは「いかがな」ものかと思う。

 

そう言えば、ヤクザは、業務の都合上「居丈高」になる機会も多いのだろう。 外国でも、日本のヤクザは強面(こわもて)すると思われる。 身体のサイズが小さくても、面付きさえ、歌舞伎の奴面(やっこツラ)の様に厳し(いかめし)ければ、相手はビビちゃう。 いや、面付きは自前で、自在に変えることは出来ない。 そうだ、帽子(ハット)がある。 これで相手をハットさせる手がある。 雄鶏仕様だな。

 

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つら つき  【面付き】 顔のようす。 顔つき。・・・・・・・・・・・・ 三省堂 大辞林

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身体の大きさには、威圧感があります。 大きな(背の高い、デブ)な奴に、関わり合うと、私は残念ですが、なんとなく自分の方が「劣等」であると感じて、萎縮してしまうのです。 自分に対して腹が立ちます。 しかし、私の方の「劣等感」に問題があるとすると、誰をも責める訳にはいきません。

 

私には、アメリカ人の友達が何人も居ます。 以前、アメリカの会社に務めっていたこともあり、ニューヨークに棲んでいたこともあります。 アメリカ以外の外国へも、何度も行っています。 彼らが、居丈高であるわけではありません。 アメリカ人は、特に、平静で、居丈高とは感じられません。 でも、身体のでかい奴からは、いつも、威圧感を感じてしまうのです。 どう考えても、自分に腹が立ちます。 

 

そう言えば、「でかい」という意味で使う言葉に「かさ(嵩)」という言葉があります。 気になるので、この言葉を調べてみました。

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かさ 【嵩

③ 高い所。かみて。 ④ 芸の幅や厚み。

使用例:嵩から出る ・ 嵩にかかる ・ 嵩に回る

三省堂 大辞林(編集)

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やはり、昔から、誰もが、大きいやつ(身体についても、心についても)には、叶わないと心理的に感じていたようです。 身体が比較的小さい、負けず嫌いの私としては、やりきれません。 私の「せい」じゃないのですから。 と言って、万事に「でかく振る舞う」、ほど厚かましくはありません。

 

考えてみると、相手が同じ日本人であっても、相手の身体が大きいと威圧感を感じてしまうのです。 最近は、身体のサイズに、「特に」、注目するようになりました。 そして、身体の大きさに拘る必要はないことに気付きました。 この発見は、アメリカ映画の中でした。 身体が小さくても、大きな奴と、外見上は、対等に渡り合ってる奴がいる(!)ことに気付いたのです。 

 

私が見た映画では、ズラッとならんだ、身体の大きなアメリカ人に囲まれた身体の小さなアメリカ人が対等に振る舞っているのです。 いや、むしろ身体の大きなアメリカ人が、小さなアメリカ人を対等に見ている(扱っている)と言うべきでしょう。 これは、もう身体の大きさの問題ではありません。

 

どうも、私自身を含めて、日本人には身体のサイズについてのコンプレックスがあるのが、問題の根源にあるようです。 いや、根源は、身体のサイズにあるのではなくて、ある種の「差別感」にあるのじゃないでしょうか。 いや、いや、差別感と言うよりも、元々、歴史的、伝統的に持っている「劣等意識」、「身分意識」が、優越感や劣等感を感じさせていると言ってもいいでしょう。

 

アメリカは、色んな種類の人間が集まっている国です。 北欧系の身体の大きい連中も居れば、南欧系の身体の小さいデブな連中もいます。 身長の馬鹿高い黒人もおれば、矮小な黒人も居ます。 東洋人も、アラブ人も、原住民も、います。 こうした雑多な人たちが、形の上では平等を唱えて、社会的には、人口の大きな部分を占める黒人の差別以外は、劣等感も優越感も表されてはいません。

 

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『ぼくのおじいちゃま』 学習院中等科1年  吉田茂の孫(某) 

ぼくはおじいちゃまをとてもいい人だと思っている。 大磯に行ってもいつもにこにこしておられるし、官邸でお会いしても笑ってらっしゃることが多い。 議会でむっとしているのは、ぼくが学校でつまらない時やむずかしい勉強の時、しかめつらするのと同じことで、あたりまえのような気がする。 
まあ、怒るのは玉にきずだが、家にいらっしゃる時は、とてもごきげんがいい。 この間、官邸でいっしょにおやつをいただいた時、甘いものが好きなおじいちゃまは、モナカのあんこだけを食べて外側を残したりして、まるで子供のようだ。


それからぼくは、おじいちゃまの服装では和服が一番好きだ。ゆったりとしてよくあい、白たびもきれいだ。 声は特長があってとてもマネしやすいし、聞いていておもしろい。 頭ははげているからかわいく、はな眼がねや葉巻はおじいちゃまからはなせないものだ。 もし、おじいちゃまが、パイプを吸ってたり、普通の眼がねをかけたら、おかしくって見ちゃいられないと思う。 (Web)

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上記の記事にある吉田茂の孫は、現存の大臣です。 部下の「XX急行便」と渾名(あだな)される事務次官名を「呼び捨て」にしています。 仲間の国会議員たちは、相手が部下なのだから、「呼び捨て」も許されると庇っています

 

日本には、身分意識という封建思想の残り滓が、今も残っています。 関係者は、打ち消しに必死なようですが、「土俵へ女子は上げない」といった男尊女卑の考え方、仕来りも、その残り滓です。 

 

私が、そして大方の日本人が抱く殆ど本能的な劣等意識の根源を、私は探っていますが、未だよくわかりません(社会心理学者の意見を聞きたいものです)。 類似の感覚に身分意識があります。 身体の大きさと目上か否かとは関係がない、と思うのですが、身体の大きい奴は、目上のように感じられるのです。 これは、本当に人徳(人得)です。 重ねて言いますが、社会心理学の解説を待つのみです。

 

私も、必要なら「居丈高」に他人を叱ったり、罵ったりする「身分」を最近漸く獲得しました、 「年功」という昔からの「似非(えせ)」権威です。 上記のお孫さんは、私の権威から言えば、まだ「若造」ですが、権高に振る舞う「特権」めいたものを併せて幾つももっています。    

 

この男は、第一に、皇室の姻戚です。 次に、金を持っています。 第三に、沢山の子分を抱えています。 第四に、悪仲間が居ます。 また、本家の天皇には、それがないと思われるのに、他の権威の副次的効用でしょうが、当人に特有の図々しさ、厚かましさを身に備えています。  しかし、顔付きは別として、年功は十分ではありません。 子分共よりは、少し年上と言うだけです。

 

私が獲得した「年功」という権威は、私、自らの力で勝ち取ったものではありません。 「人権」の論議でいう「自然権」に近いもので、日本文化-中華系東洋文化―の伝統(例えば、敬老の風潮)に基づいて、「天が与えた」ものです。

従って、

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「人権」には「基本的人権」や「基本権」のように関連する概念があり、これらが相互に区別して論じられることもあれば、同義的に使用されることもある。

法的には(実定法を越えた)自然権としての性格が強調されて用いられている場合と、憲法が保証する権利の同義語として理解される場合がある。 また、もっぱら <国家権力からの自由> について言う場合と、参政権社会権やさまざまな新しい人権を含めて用いられることもある。

人権保障には2つの考え方がある。 その第一は、いわゆる自然権思想に立つもので、個人には国家から与えられたのではない、およそ人として生得する権利があるのであり、憲法典における個人権の保障はそのような自然的権利を確認するものとの考え方である。 広辞苑では、実定法上の権利のように剥奪されたり制限されたりしない、と記述されている。 その第二は、自然的権利の確認という考え方を排し、個人の権利を憲法典が創設的に保障しているとの考え方である。 18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となったとされ、1814年のフランス憲法などがその例である。・・・(ウイキペデア:編集)

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 自ら勝ち取ったものでなく、天与の権威だとすれば、「優越感」でなく、日本の「敬老」の価値に繋がる老人側の「頭を低くして対応する」姿勢(居丈高な姿勢とは正反対)の心構えが必要です。

 

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稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になり、小人物ほど尊大に振る舞うものだということ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(Web辞書

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そして、目上と感じる相手には、どうにも頭を上げあれられません。 これでは、「天は人の上に人を作らず」の人口に膾炙した福沢諭吉が唱えた民主主義も、「未だし」と言わざるを得ません。 その意味で、私はもちろん、我々は、未だ、後進国民なのでしょう。

 

身分意識のゆえに、威圧感を与えたり、威圧感を感じたり、「忖度」と言った言葉を使い、「首相のご意向です」などと偉い奴(この言葉には、二重の意味があります:末尾注参照)の鼻息を窺うと言ったことを人々はするのでしょう。 

偉い者の自分の側の優越性を態(わざ)とらしくチラつかせた、謙った(へりくだった)物言い、服従する側の屈服姿勢をむき出しにした言葉使い、など、日本人の心の底にこびり着いた「身分」、つまり「分」を弁え(わきまえ)ようとする姿勢を正さない限り、民主主義は実現されません。 

 

人に身分差はないのです。 すべての人は、同等であり、誰もが、職業、年功、出自、性別、老若、国籍、の別無く、対等なのです。 例えば、男と女の区別はあります。 しかし、男(女)だけに許されて、女(男)には許されない場所などは、男女便所、男女浴室、産室、等を除いてはないのです。

 

身分意識は、捨てるべきです。 しかし、身分意識は言葉や生活の中に、伝統的礼儀作法として、抜き難く埋め込まれて残っています。 敬語、立ち居振る舞い、文書等における敬語表現、(拝啓・敬具、前略、殿、様、御中、先生、かしこ、目下と思う相手の名前の呼び捨て、etc.)生活の中に表される態度・姿勢(一尺下がって、影を踏まない、何事にも一歩譲る、等)、数え上げれば、キリがありません。 こうした身分意識は、ある時は、日本文化の美風として数え上げられ、また、常時、我々の思考や生活態度、行動を妨げています。

 

お金持ちや偉いさん、年功者、の意向を忖度はしてはならないのです。 お金持ちや偉いさん、年功者も、貧しい者(?)、弱い者(?)若いもの、に対する「嵩にかかった態度」を捨てれば、人々の間に感じられている威圧感や身分の低い者同士の間の争いも、世間から消える筈です。 しかし、未だ、身分の高い者、身分の低い者両方の、そして異身分間の、「身分意識」克服が必要だと感じられます。 幕末、明治が、まだ、目の前に、チラついているのです。

 

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注; 偉い奴が強いんじゃねぇ。 強い奴が偉いんだ。・・・・・・・・・・(言い人知らず)