鉄道大臣のひとりごと

老人ホームで過ごしながら徒然に考えたこと

老人の主体性と怒り

老人には、老化と共に、今までできたことが出来なくなったと感じる「もどかしさ」がある。 この「もどかしい」と感じる「気持ち」が「じれったい」気持ちに繋がる。 この「じれったい気持ち」こそ、老人が保っている主体性の名残リであり、老人を「潜在的」な怒れる人間にしている。 いわば、老人は、基本的に怒っているのである。

 

「恩は着るもの、着せぬもの」という。 老いさらばえた(体力の衰えた)親、老人を労ろうとする気持ちから、子供や若者は、親、老人を労ろう(いたわろう)とする。 その気持は、有り難い。 しかし、その気持に乗っかった世話は、往々にして「要らざるお節介」になってしまう。 老人の願いは、昔のように、自分の力で「動きたい」ことにある。 それだのに、「恩着せがましく!」若者が、老人を労るのは、「有難迷惑」に感じられる。 「恩は着るもの」と感じる老人は、その「迷惑さ」に苦情をあからさまに述べることはできない。

 

老人は万事について危うい。 そこは、天の配剤か「老人をボケさせる」自然の力が働いている。 しかし、ボケない老人も居る。 では、ボケない老人を如何に扱うか?  そうした老人には、当人の「主体性」に応じるのである。

主体性に応じるとは、「対等に応じること」を云う。 相手の「主体性」に自分の主体性を、対等の人間同士としてブッツケ合うのである。

 

老人は、潜在的に怒っている。 誰に向けて?  天に向けて、配剤を呪っている。 「要らざる配慮」、「無用の労り」は、老人を貶める(おとしめる)ものである。 老人にも主体性があり、人格がある。 この老人の基本的権利を守るのが、「敬老」である。 そのためには、不要の労りや介護、不要の尊敬、などは、逆に老人を辱める(はずかしめる)ものである。

 

老人と言えども、一個の独立した人間である。 我が子の成長を、喜ばぬ親は居る筈もないが、その子が親を辱めることがあってはならない。 すれば、逆に親不孝になる。 親子が対等の人間同士なら、互いに遠くにあって、互いに見守り合うのが良い。 過剰保護を避けるべきは、我が子の過剰保護にも、我が親の過剰介護にも、言えることである。