鞍馬天狗

夢寐のたわごと

お駄賃(増幅:その2)

Stretch your imagination!(想像の羽根を伸ばせ!) 自分が10歳前の幼児であった頃の心へ戻ろう。 母親にエランド(Errand=お使い)を頼まれて、近所の雑貨店へ走り、頼まれた品物を、無事に買って帰った時の「達成感!」。 うおぅ!  そして、お駄賃が貰えた。 お駄賃は、達成の証だ。 自分、独りでやれたぞ。 それを母に認めて貰えた! 

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注;「講釈師見て来たようなウソを言う」: 昔の話、他所の話は、たいていの場合、書き手は、描かれている現場に、自身が居た(存在した)訳ではありませんから、話を作っています。 物書(ものかき)や作家、ブログの書き手は、全て「講談師」の仲間の嘘つきです。(鉄道大臣)

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日本には、昔から「お駄賃」という美しい慣習があった。 呉れるのは、隣のおばさんでも良かった。 自分の母ならモット良かった。 兎に角、お駄賃が貰えた。 おまけに、駄菓子屋と言うお駄賃が使えるシヨッピングの場所まで、近所にあった。

 

近頃は、隣のおばさんは居なく成った。 一階上のおばはんや奥様はいるが、疎遠だ。 近所の駄菓子屋が、無くなった。 温かい手の駄菓子屋のお婆さんも居なくなった。 でも、コンビニがある。 ゲー・センもある。 しかし、幼児やチビの手は届かない。

 

今は、お駄賃も、ご祝儀も、心付けも、寸志も、何もない。 世は、若返っている。 幼児は忘れられている。 老人も忘れられている。 人生の両端がないがしろで、中程が満タンだ。 心付け(心使い)を忘れた若者で、満タン。

 

近頃は、「土産」も無くなっている。 土産を持って、錦を飾って帰る故郷も、無くなっている。 故郷は近くなったが、「香り」は無くなった。 春は相変わらず爛漫として来るが、心は鬱陶しい。 家族も居なくなった。 一人一人が別々に「核」家族を作って棲んでいる。 

 

土産の習慣は、西洋にはないが、親でも、子供が持ち帰る(呉れる)土産は嬉しい(英米には、土産に相当する言葉はないが、スーベニア(記念の品物)を渡す習慣はある)。 近頃は、こころが寒い。 心の中を、からっ風が吹き通っている。 団欒が無い。 コタツも無い。 家族が語らう家もない。 新しい時代が、直ぐ傍へ迫っている。

 

井戸もなくなった。 水栓一捻りで、水が手に入る。 いや、自動販売機で消毒された清潔な水を、ポット詰で売っている。 もう、近所のおばさんたちの会議はない。 家族の団欒どころか、近所「付き合い」も減った。

 

近頃、例えば「歩きスマホ」で、老人にも知られるデジタルの世界は、点と点の連続である。 国家も、世間も、個人も、点と点の集まリに還元されつつある。 アナログは、歴史の断絶と共に消え、デジタルな競争、相克が、グローバルなギクシャクした点と点の繋がりを作っている。  

 

懐かしき郷関も、一地方の点になってしまった。 麗しき山野は、工場の轟音轟く市町村となった。 近所の駄菓子屋は、過去のものとなった。 お駄賃を呉れる優しい隣のおばさんは、ツンと取り澄ました上の階の奥様になった。 意思疎通は喧伝されるが、以心伝心は昔の戯言になってしまった。

 

お駄賃は遠くなった。 心付けも、寸志も、気持ちだけも、皆んな遠くなったが、賄賂だけは残っている。 賄賂だけは、頂上の役人、政治家によって率先垂範されているから、残っているのだ。

 

心付け、ご祝儀、貰って嬉しい。 細かい気配り。 嬉しいのは、大人、子供に関係がない。 賄賂は別として、貰う物の上物、下物に関係はない。 だから、「寸」志という。 賄賂は「大志(?)」の現れである。