鞍馬天狗

夢寐のたわごと

無念無想

「介護」、「お節介」、他、は、全て、「自分事」である。 すべて「自分の為に」やっているのである。 おそらく、全てに人、私自身を含めて、物事を観るときには、「目」に、自分の関心や立場という薄霞を掛け(通して)見ている。

 

医者は、自分の関心を背景に据えて、患者を診断している。 他事においても、どの人間もそうである。 無念無想に、物事を観ずるには、相当の修行がいる。仮に、無念無想の境地に達し得たにしても、物事に心を移せば、その瞬間、たちどころに、自分の立場、自分の関心、「自分」が表面、そして背景に現れる。

 

自分のことは、自分の心に尋ねるより、知る方法がない。 その自分すら自分に拘っている。 「我」を無くすことは、万事に超越することであるが、そのような「超越した境地」には、通常の人間は達し得ない。 「我執」は、人間の「業」である。

 

残念である。 残念無念である。