鞍馬天狗

夢寐のたわごと

博覧強記

この表現は、人間の賢さを表すのに使います。 「識見」、「見識」とも言います。 これらの表現は、全て正鵠を射ていると思います。 怪しいのは「創造」です。 当てずっぽうですが、人間の知恵の九割以上は、「借物」だと思います。

鉄道大臣さんも何度も言及していると思いますが、人間は、「真似ること」を通じて進歩してきたのです。 何を真似た。 真似の基盤(手本)は。おそらく、創造と偶然の発見でしょう。

創造は、「万に一つも期待できない」、それこそノーベル賞ものです。 偶然の発見は、ややもすると、ノーベル賞を当てることもあるでしょうが、偶然の結果(着眼)を「見逃さない」敏感さ(senstivity)が、それには必要です。 創造と偶然の発見に対する着眼の敏感さが、見識の源だと思います。 

言い換えれば、大抵の賢い人は、見識が広いのです。 他人の知恵や見聞を広く見、聞き、している人です。 他人の知恵や見聞をどのようにして獲得するかと言えば、もっともありきたりな方法は、読書です。 他に、観劇、旅行なども、他人や他所の知恵を借りるのに役立ちます  旅行は、自分で知恵を発見するのにも役立ちますから、創造に近い効果を挙げることが出来ます。

最近のように、IT機器が発達してきますと、博覧や強記の幅を広げ、深める事ができるようになってきました。 斯くいう私の知恵もパソコンの力に大きく依っています。 私は、老人ホームに蟄居していますが、遥か350km以上離れた故郷の街の現在より少し昔(数ヶ月)の姿を見ることが出来ます。 「故郷は遠くに離れて思うもの」ではなくなって来ました。 この驚嘆すべき発明は、誰かの最初の創造の上に、継ぎ足し、継ぎ足ししてきた、いわば伝聞の集積の上に成り立っています。

凡人(例えば、私)も、悲観する必要はないのです。 もちろん、誇れる筈もありませんが、博覧であれば、そして見聞きしたことを忘れなければ(そして長生きすれば=年の功)、賢い人として、通用するのです。 私は、生を受け、賢い人になった。 それで良いでしょう?