鞍馬天狗

夢寐のたわごと

文化と言語・仕草

文化が違うと、言語・仕草、その他の意思疎通の仕方が伝える意味が異なってくる事がある。 例えば、誰かを招く際の「手振りの仕方」一つを取り上げても、日本人は、「手の平(掌)を下に向けて手を振り他人を招くが」、西洋人は、「手のひらを上に向けて手を振り他人を招く」事が多い。  共通のものもある。 例えば、「拍手の仕方」は、ほぼ世界共通のようである。

また、慶應義塾大学名誉教授鈴木孝夫氏は、西洋人と日本人のスプーンの使い方の例を挙げている(同氏著「ことばと文化」)。 西洋人はスープを口に入れる際(飲むときは?)は、スプーンの先を口に向ける傾向があるが、日本人は、スプーンを横に向けてスープを飲む傾向がある、というのである。 日本人は、味噌汁を飲む習慣が身についているから、スープも味噌汁と同じように「扱う?」わけである。

日本人には「レディファースト」という観念は定着していない。 この事は、必ずしも「男女差別」意識が残っていることを意味するわけはない。 むしろ男は男、女は女という「並列意識」、ないし「無意識」が存在するというべきだろう。 この「無意識」言い換えれば、コノテーションが文化の内容を為す。

逆に言えば、日本人のこの無意識が、特別に女性を崇めたり(「意識したり」ではない)、敵視したりするものでもない「女は男とは違う人間」という観念を定着させている。 つまり、単なる生理的事実の認識である。 この認識が日本文化の一端をなしていて、西洋文化との異なりを示している。

日本文化は、「恥の文化」だ、とアメリカの文化人類学者ルース・ベネデクト博士が喝破したと聞いている。 それに対して、キリスト教信仰に基づく欧米の文化を「罪の文化」と呼んでいる。 英米人も「シェーム(scheme)の観念は持っているが、「恥をさらす」ことを、howling schemeという。 つまり、恥を喚く[わめく]のであるが、日本人は、恥を晒すのを恐れて、恥を隠す。

ことほど左様に、「女や男」、「恥」の受け止め方、つまり意味が違うのである。
こうした違いは、文化、伝統の故であると思う。 考えてみると、文化が違えば、言葉、仕草どころか、それらの受け止め方(意味)まで違うのである。

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アメリカの文化人類学者であるルース・ベネディクトが著書である『菊と刀』には、日本人の国民性を研究したものが記されている。
 その中で彼女は、欧米では内面の良心を重視する(=罪の文化)のに対し、日本は世間体や外聞といった他人の視線を気にする(=恥の文化)と考察した。  両者の違いは、行為に対する規範的規制の源が、内なる自己(良心)にあるか、自己の外側(世間)にあるかに基づいている。
【欧米】「罪の文化」:欧米では内面の良心を重視する文化
神に見られている—キリスト教から生まれた「罪の文化」
【日本】「恥の文化」:世間体や外聞といった他人の視線を気にする文化
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ウエキペデア)
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オリンピックを近くに迎えて、通訳、翻訳と学者、識者、巷間のボランテイアが忙しくなってきているが、外国人の言葉や仕草をそのまま鵜呑みにして、下手な日本流の英語や外国語で、通訳、翻訳するのは、文化交流どころか、文化変(偏)流に流れやせぬかと危ぶむ次第だ。 では、どうすれば良い? 最良の策は、「本物」で、やって見せ、受け止めることである。

本物でやってみせる? 本物で受け止める? 無言でいい。 茶道、琴三味線、舞踊、柔道、剣道、合気道、書道、そろばん、商売、教授、家事、炊事、なんでも良い、無用の準備は忘れて、こちらの本物をそのままみせるのである。 そして、むき出しの相手のそのままを受け止めれば良い。

いわば。相手を理解出来る範囲で、自分が思う通りにやってみせるのである。 相手の言うことを理解出来るままに、応えるのである。 誤解を生む? しっぱいする? それならそれで良い。 ダメ元だ。 自棄のやん八、「為せば成る」 それが本来の日本人の精神だ。 そうでなければ、本当の「交流」は出来ない。

明治以来、日本の発展は、試行錯誤、ムダ、失敗、工夫、度胸、に基づいて行われてきた。 誤解に基づいて戦争までやったし、失敗を重ねて成功を続けてきた。 オリンピックも上手く行くぞ!