鞍馬天狗

夢寐のたわごと

美の鑑賞(愛玩)と差別意識

「鑑賞」の立場は、鑑賞する側を「優位」に置く傾向がある。 逆の立場は、見下される立場である。 鑑賞の対象が、美術品や骨董品のように、無生物なら問題はないのだが、鑑賞の対象が人間であると、「差別」感を醸し出す。

鑑賞の対象となる「芸人(げいにん)」は、昔は「下賤(げせん)の者」と受け取られる傾向があった。 これは、もちろん、侍という「士農工商」の最高位にあると自認する連中が勝手に言い出した主張である。 それを受けて(自分たちでも見下す事のできる一層下位の人間のレベルを心情的に求める)下位の「農工商」の人たちも、芸人を「河原乞食」と呼んで下賤の者と見なした。

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注1:士農工商(しのうこうしょう)とは、儒教において社会の主要な構成要素(官吏・農民・職人・商人)を指す概念である。「四民」ともいう。

・・・・・・・・・(ウイキペデイア)
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注2:現代語の「河原乞食」は、俳優などの芸能人が自らを嘲る呼称や、芸能人を蔑む呼称となっている。 東野圭吾の小説『手紙』でも、中卒の兄 (肉体労働者・犯罪者)を持っている主人公(小説版のミュージシャン、映画版のお笑い芸人)が富裕層から差別される場面が重点的に描かれており、芸能人が差別や軽侮の対象であることが暗示的に描写されている。

・・・・・・・・・(ウイキペデイア)
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歌舞伎(役者)の化粧、立ち居、振る舞いを美しいと感じた人たちは、争って彼等の「美」と「芸」を鑑賞に出掛けたと思うが、この辺りから鑑賞(愛玩)する側の意識に混乱が起って、愛玩と差別の区別がつかなくなってきたのではないかと思う。

「しとやか」、「艶(あで)やか」、「しっとり」、「優しい」etc.は、本来(?)これらの言葉は主として女性の美しさを形容する言葉であったにもかかわらず、これらを否定的に使って、彼女には「艶やかさがない」、「しとやかじゃない」、「しっとりしたところがない」、云々と女性差別用語として転用することが多い。

本来の意味を超えて、差別用語として言葉が転用され、混用されるのは、意識や言葉の改革が十分でないために、適切な言葉 が不足しているからだと思う。 
誰もが理解しているように、これらの言葉には、「差別」の意図は含まれていない。 

差別的であるか否かは、言葉を使う側の「頼り」、「頼りにさせる」意識の問題であり、こうした女らしい、また男らしい意識のあり方は、意識と言葉の改革を必要としている。 このような意識改革は言葉や文化の改革へも繋がっているから、言葉改革は、意識と文化の改革と並行して為されてい(るべきであ)ると思う。

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注3:しっとりとは?  ① (人が)落ち着いてしとやかなさま。
② 雰囲気が、しずかで落ち着いているさま。
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注4:おお しい 「雄雄しい・男▽ 男▽しい」
① 男らしくて勇ましい。いさぎよく力強い。 ⇔  めめしい
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ウエブリオ辞書)
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対等(意識)は、「男らしさ」や「女らしさ」、を代償として成り立つ、ものかも知れない。 頼り、頼られない、どちら「らしくない」中性の誕生である。 言葉の中性化は、日本の伝統、そして文化を十分に破壊する恐れがあるが、既に、そうした伝統の破壊と変革は始まっている。 

現代に至って、女性の乱暴な言葉使い、男性のナヨナヨした言動は、世間でも珍しいものでは無くなって来た。 諄い(くどい)ようだが、意識と言葉の変革は、既に始まっている。 この変革は、日常の生活ばかりでなく、芸能、文学、音楽、美意識、などの分野でも、急速に動いて行くものと思われる。 代わって、電子科学、物理化学、情報科学、等の分野が、刮目すべき速さで台頭している。

銀杏返しに、黒繻子かけて♬の風情は、大正・昭和のものとなって、我々老人の頭の中で響くのみである。 平成の若者たちの耳には、ギターやウクレレの音響と共に、別の旋律が鳴り渡っている。 「光陰」は、意識や言葉と共に「矢の如く」走り過ぎてゆく。 90歳を目前に控えた私も、現代科学が人間の寿命を一層伸ばしてくれない限り、間もなく、この世界から別れることになる。