鞍馬天狗

夢寐のたわごと

たてかん

京都大学の学生たちが、長年(?)「たてかん」と呼ぶ自前で作ったベニヤ板などの上に書いた展示看板を大学の道路に面した壁(石垣)に、通行人に見えるようにして立てかけている、と8月19日の夕方のNHKテレビで報道されていた。 京都市は、市の美観を損なうという理由で、たてかん展示を禁止せよと大学の当局へ通達した。 大学当局は、その通達に応えて「たてかん」を撤去の措置に出た。

市の条例とそれに応じた大学側の「たてかん」撤去に反対して、大学生側は、次々と新しいたてかんを作って展示したので、いたちごっこになってしまっている。 学生たちは、表現の自由を謳って、大学当局、および京都市の抑圧に抵抗しているのである。 

人間に表現の欲望が備わっているのは、もとよりの事だ。 従って、「抑圧」は誰にとっても、不愉快なものである。 抑圧されればされるほど、自由を求め抵抗したくなる。 「美観を損なう」という理由は、不条理な理由である。

私は、「美観を損なう」という理由は、たてかんを禁ずる正当な理由にはならないと思う。 逆に、たてかんは景観を際立てさせている。 たてかんに書かれた内容が、人々に何事かを訴え、人々の気持ちを揺さぶっているからである。 その証拠に多くの人が、たてかんを見に(読み、眺め)に集まっている。

大学生たちは、心に鬱屈している何事かを、表現し、世間に訴えたいのである。
世間は、聞く耳を持っている。 京都市、大学当局は、学生たちの鬱屈を、彼らの表現の自由を奪うことに依って、彼らの鬱屈を強めている。

誰にも、鬱屈はある。 その鬱屈を晴らしたいという気持ちは、避けがたい。 
私にも鬱屈はある。 だが、私は、口舌の徒ではない。 私は、自分の鬱屈を晴らす為には、むしろ文筆を選ぶ。 従って、私は世に問うことを多くを胸に抱えていても、政治家には向いていないと思う。

私は、たてかんを支持する。 京都市と大学当局の頑迷さを非難したい。