鞍馬天狗

夢寐のたわごと

老人ホームの管理

一般に、老人ホームへ新たに入所してくる人は、どんな人かが分からない。 要支援、要介護、認知症患者、などが、色とりどりで入ってくる。 事前に、予備知識を与えられている職員はともかく、入居者同士だと、暫く様子を見る内に、どんな人かの見当が付き始める。 それまでは、オッカナビックリで接触することになる。 この状況は、要支援、要介護、そして認知症患者を相談の上で、受け入れる現代の有料介護付き老人ホームでは、避けがたい実情である。

身体障害者知的障害者「混住状態」は、現代の「事業化」された老人ホームでは、当然のことと是認されている。 しかし、彼らを別々の部屋へ入れることがあっても、別々の建物へ区分けして住まわせるわけではない。 食堂での食事、また催し物などの機会には、自然に彼らが一緒になる(される)ことも多い。

彼ら相互のコミュニケーションは、軽度障害者でなければ、元々、無理である。 施設管理者は、その辺を心得て施設の運営に当たるが、個々の入居者に、その場、その時に応接するのは、職員である。 施設の全体管理に横断的(全般的)に当たるのが、管理者だとすれば、個別に応接し、処置をするのは、職員である。 此処に、大病院や大学などに見られる「縦割り行政」との類似性がある。 

縦割り行政ほど、大げさでなくとも、個と全体の必要上の相違は、中小の老人ホームでも、ましてや、大老人ホームでは起こっている。 病院を訪れる患者候補は自分が、どの「科」を訪れるべきかは知らない。 ただ体調がすぐれないから、病院を訪れるのである。 どの科が適切かを見分けることの出来るのは、医者である。 同じ様に、老人ホーム入居者は、自分にどのような介護が必要か、そもそも介護自体が必要かどうかも知らない。 しかし、老人ホーム側は、「介護が必要だ」と、一概に、決めてかかっている。 まさか、入所料を徴収しておいて、介護無しで、施設内に自由に放っておけば良いとは思ってもみてもいない。

専門家でない入居者や家族たちには、自分、つまり当人に必要な介護の程度は分からない。 しかし、老人ホームに入所すれば、兎も角介護はして「貰える」。 金を払ったのだから当然である。 老人ホームは病院ではない。 老人ホームの職員も同様で、役目だからと預かった老人の世話(介護)をする。 老人は(老人でなくとも、大抵の人がそうだが)、傷み易く、安楽を求め易い。

世間の誰もが、旧習の延長線上にあって、老人は、老耄するものだと、決めて掛かっている。 しかし、世と共に、人間の可能性も、遅々としていても、変わって来ている。 老人は、労る為のものでもなければ、教えを請う為のものでもない。 老人も、若者と同様、成長するものである。 従って、老人を介護するに当たっても、老人の人権と可能性を認め、単に労るだけでなく、介護の必要度を知る必要もあれば、老人の成長・老耄からの回復を促す必要もある。
 
介護の必要度の判定はもちろん、まして、高齢者の老耄からの回復、そして彼らの成長のための機会の提供、器具の準備は、どの老人ホームでも、積極的に為されている気配がない。 残る余生の少ない者たちだ、と侮ったり、労わリ過ぎることがあってはならない。 高齢者に成長、少なくとも老耄からの知的回復の可能性がある限り、まして人間の寿命が100年に伸びた今日のことである。 老人の現状(体力、知力の程度)の把握、知的成長の可能性の測定は、高齢者介護の必要性の軽度化(削減)に必要であり、生産人口の増強に消極的ながら、必要である。 

このことは、決して高齢者を有効生産人口として狩り出せと言うのではない。 しかし、これに依って、高齢者を少なくとも「余分の手の掛からぬ」人口として温存し、高齢者に余生を楽しませ、かつ、国民全体の生産力を弱めずに済む。それのみならず、高齢者に生き甲斐を感じさせ、老人に幸せと喜びを感じさせることが可能になる。