鞍馬天狗

夢寐のたわごと

勝負は結果、言い訳はプロセス

昨日、起った、痛ましい北海道の地震。 ある二人の人が住む家が、降り落ちて来た土砂に押しつぶされて、家の中に住んでいた二人の人が死んだらしい。 テレビで見ていると、救急車がやってきて、見つかった一人の人を乗せて去って行く。 間もなく、その救急車らしい車が戻ってきて、後で見つかったもう一人を乗せた。 救急車は、病院へ一人を運ぶ前に、もう一人いると気付いたようだ。 手っ取り早いのは良いが、「過ぎたるは、及ばない」ことに気付いたのだ。

ある老人ホーム「有料で、しかも介護付き」。 昼下がり、職員たちの多くが、
昼の休憩で、へルパー・ステイション(詰所)を引き払っていた。 詰所の前に数人の分別を失っている老人が数人座っていた。 どの老人も車椅子を必要とする身体。 そのうちの車椅子に乗った一人が、トイレに行きたいと叫んで、当たりを見回したが、誰も居ない。 今一人の車椅子に乗った老婆が突然立ち上がって、トイレへ行きたい老婆の側へより、「誰かを呼んであげる」と言っている。 でも、他に用事があるのだろうか、他所の部屋へでも行っているのだろうか、どの職員も詰所には居ない。

これが小便程度なら、「おもらし」で済む。 しかし、「救急」の状態なら、どうなる?  死んでしまった人間を、生き返らすことは、現代医術では出来ない。 「他に用事があったものですから」という言い訳では、死人は生き返らない。 生死を分かつ問題では、結果が勝負のしどころである。 プロセスを如何にゴネても、結果を改めるわけには行かない。

人間の生きる舞台は、プロセスである。 そこに「生涯」という長いプロセスがある。 結果は、時々の生涯の「切口(一断面)」である。 切口、切口毎に力んでいては、長いプロセスが持たない。 「緩急一体を為す」手加減も必要である。 地震、雷、火事、(親父)などの天変地異は別して、時に、悠々たるプロセス(息抜き=人生)も必要である。