鞍馬天狗

夢寐のたわごと

我輩は店子(たなこ)である

我輩はある老人ホームの店子である。 名は、ハッキリしている。 どこで生まれ、どこに住んでいたかも、明確に記憶している。 なんでも、町中のガヤガヤしたところに生まれ、その後もちゃんとした土地に住んでいたことを覚えている。 我輩はここで初めて、お年寄りたちを見た。 しかも、後で聞くと、それは、ボケ老人と言う一番頭の悪い種族であったそうだ。

ボケ老人たちは、健常者、ボケ仲間の見境なく、話しかけるそうだ。 しかし、当初はなんという考えもなかったが、彼らは我々に何気なく話しかけるので、健常人のような感じがした。 話しかけられている内に、落ち着いてボケ老人たちの顔を見たのが、ボケ老人というもの見始めであろう。 このとき妙な人達だと思った感じが今も残っている。 理性を持って語るべき筈の話の脈絡がまるで無い。 その後、他の老人たちにもだいぶ遭ったが、こんな馬鹿には、一度も出くわしたことがない。 のみならず、一見、健常面をしている。 そうして口から、言葉らしいものを吐き出す。 それが、いわゆる「言語」らしいことを、この頃悟った。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

上記は、夏目漱石の「吾輩は猫である」の出だしの部分をもじったものである。
私も、一時心神耗弱の状態にあり、ある病院の精神科に入院していたことがある。 その後20年近くある系列の老人ホームに住み暮らしてきた。 そして、理性をだんだんに取り戻してきた。 今は、自認ではあるが、完全な健常状態に戻っていると思う。

行きがかり上、健常状態に戻った今も、続けてこの老人ホームで暮らしている。従って、健常の目でこの老人ホームに暮らすボケ老人を観察することが出来る。
いや。それどころか、ボケ老人たちの面倒を見、応接する職員(介護へルパー、一般事務職員、ナース)たちの言動を観察することも出来る。

ボケ老人たちは、もちろんだが、健常である筈の職員の言動も、ボケ老人たちから影響を受ける。 例えば、ボケ老人たちは、概して車椅子に乗せられ、職員の目の届く範囲内へ移されている。 突然、車椅子から立ち上がり勝手に動き出すボケ老人(転倒の危険アリ)、代わる代わるトイレへ行きたいとか、自室へ戻りたいとか、時分どきではないのに飯を食いたいと訴える、更には、意味のない言葉を大声でケタタマシク騒ぎ立てる、等など、ボケ老人の訴えや騒ぎは、随時随所で起こる。 このような情況では、この老人ホームは、他の老人ホームと同じ様ように、「有料、介護付き」を建前としているから、常に介護の目(常時観察・監視)を怠ることは出来ない。 

他方、職員と言えども、また、健常であろうとも、こうした随所、随時、髄人の「介護要求」に応えるのは、甚だ「うるさく」、辛抱の限界を超えることも起こるに違いない。 ボケ老人のたわ言に辛抱袋の緒が切れて、怒鳴り、やり返す、介護職員も少なくない。 「さっきご飯を食べたばかりじゃありませんか。 もうご飯はありませんよ」、「さっきお部屋へ戻ったでしょう。 今、ここへ来たばかりですよ」、「さっきも言ったでしょう。 今は、8月31日金曜日の午後2時です」。

恐らく、こうした訳の分からない言動に応接する介護職員の内心は、イライラ、ムカムカ、しっ放しだろう。  そうなると、返す言葉が乱暴になるばかりでなく、言い方も傲岸無礼に変わってくる。 「お黙りなさい(ここで健常店子の感想、言っても、怒鳴っても、相手には通じないよ。 まともに、言い聞かせるのは、無駄だよ)」。

これじゃ、猫より始末が悪い。 その始末の付かない老人を介護する職員には、よほどの忍耐力、理解力、そして鍛錬・訓練が必要である。 この状況を観察している健常老人は、次のように疑問を感じている。 介護職員は、いわば、看護師のような一種の専門家である。 人手不足を嘆くのもさることながらよ、彼らは、それに値する給与は充てがわれているのか? それに対応するだけの「教育」は受けているのか? ライセンス(資格)が必要ではないのか?

ボケ老人にも、健常人同様の選挙権がある。 それどころか、人権もある。 人権を損なうことは許されない。 然るに、自立老人、ボケ老人、要支援、要介護、相談の上入居させられる認知症患者が、「混住」する老人ホームでは、職員の居住者に対する「荒々しい応接」のとばっちり(飛沫)が、自立する健常老人へ飛び、当たってくることもある。 「何だ、この野郎。 失礼じゃないか。 少しは、言葉を慎め」。 斯くて、健常老人も職員に対する「応戦」に大わらわになる。 「敬老の精神」は、どこ行った?