鞍馬天狗

夢寐のたわごと

「何故」は会話の鬼門

話している時に、「何故、何故」と問い詰めてくる奴は感じが悪い。 自分の心の中で問い詰めるのは勝手だが、話し相手に問い詰めてくる奴は、本当に感じが悪い。 まるで、こっちが犯罪者であるかのように感じさせる。 

探究心は賢さの証である。 だが、自分がいかにも賢く、お前は、頭が悪いと感じさせるのは、失礼を通り越して無礼である。 でも、学校とやら、そして近頃の若者は、小さい子に「何故と探求する」のは良いことだ、と教えている。

「何故と尋ねる」のは、良いことどころか、相手との関係をぶち壊す、対話の鬼門である。 これは、「何故?」に限らない。 その亜流の「どうして?」も同類である。 いかに言葉を優しく響かせ、飾ろうとも、検事は検事である。 弁護士に変われる筈がない。

何故が賢くあれるのは、自分の心の内で重ねる時に限られる。 近頃の科学的探究心は、はんなりと響く、優しげな風雅の心になじまない。 荒々しい戦いの魂である。 文化の響は、優しさにある。 男らしい文化は、あるといえばあるが、たおやかな「雅(みやび)」とは、かけ離れている。

「叩け、然らば開かれん」とは良く言うた。 「叩かれて」喜ぶ奴はまず居ない。 「叩く」べきは、他人の「門」や頭ではない。 自分の心の門と頭に限るべきである。 今一度、自分の会話口調を振り返るがよい。 「脚下照覧:これは、自分に言うている」、「他人(ひと)の振り見て、我が振り直せ」。