鞍馬天狗

夢寐のたわごと

ある推論

これは、主として、人間の脳に関する推論です。 ある程度まで、動物一般に関わる推論かも知れません。 私は、脳科学者ではありません。 素人です。
しかし、ある程度の年輪を経ております。 破天荒なことを書くかも知れませんが、もし荒唐無稽だと思われたら、老人の妄言とお見逃し下さい。

人間の脳には、個人差はあるかも知れませんが、一定の容量があります。 この容量のことを、英語ではcapacity(キャパステイ)と呼んだりします。 尚、英語には、キャパステイ・ストレチング(Capacity stretching)という表現もあります。 つまり、伸び縮みするという意味です。

ある種の人間が、ある特定の状況下で使用する「ゴム製品」をご想像下さい。
あれです(尚、ここで、お断りしておきますが、私はこの製品を使用したことも、見たこともありませんので、ここにしるすことは私の妄想です)。 あのように、局部の怒張に合わせて、人間の脳の容量は広がると考えます。 ただ、一度広がると、縮む事はありません。 コンピューターのように保存は出来ますが「削除」は出来ないのです。 その意味で、これもある種の人間が良く言う「記憶にございません」は嘘です。

人間の脳の容量は、このように少しは伸びます(伸びにも個人差があります。基本的には、同じです)。 ということは、老若男女を問わず、概して、どの人間も、同じ容量の脳を持ち合わせているので、特に賢いとか、馬鹿とかとは言えないと言うことです。 もちろん、「傷物」はあると思います。 外傷性の傷、先天的な傷などもあるでしょうが、私の推論は、一般論です。

老若男女が同じ容量の脳を持っているとすると、織田信長の脳、豊臣秀吉の脳、徳川家康の脳、そしてあなたの脳も同じ容量も同じだと推論しているのです。
では、なぜ若者にスマホが出来て、あなたに出来ない(失礼!)かといえば、おそらく、あなたの脳は、他のことで一杯になっているのです。 保存は出来ても、削除はできないのですよ。 記憶は出来ても、忘れられないのです。

遠い昔の事、子供の頃の事、辛かった事、楽しかった事、走馬灯のように頭の中を馳せ巡る既往の記憶と記録で、容量を使い切っているのです。 若者には、若者の容量があります。 老人には、老人の容量があります。 そのように諦めるのが、賢い老人の要領です。


失礼