鞍馬天狗

夢寐のたわごと

習い性となる

習い性となる、とはよく言ったものだ。 孟母三遷の故事を例に考えてみよう。
子供を寺の傍に住まわせたら、坊主の仕草をまねた。 子供を商売に盛んな街に住まわせたら、商人をまねた。 子供を学校の傍に住まわせたら、勉強するようになった。 

なるほど、碩学(せきがく)の大和尚に育てたいのなら、寺の傍に住まわせよ。子供を岩崎弥太郎のような大商人に育てたいと思うのなら、大商店街で育てなさい。 子供を湯川秀樹のような大学者に育てたいのなら、学校の傍に住まわせよ、という訳か。 この理屈は、馬鹿でも判ると思う。 人間はカメレオンだ。 周囲の状況に合わせて変わると言っているわけだ。

状況は、人間を「育てる」ばかりでなく、人間を善くも悪くも「変えてしまう」という理屈だ。 老人ホームには、男女の入居者が居るが、男女の数がいつも一定のバランスを保っているわけではない。 老人を介護する側の職員の数も、常に、入居している老人の男女のバランスと対応している訳ではない。

老人も入浴する。 入浴中も、職員が介助する。 マン(マン=関西方言:運のこと)が悪いと、女の入居者を厳つい(いかつい)男の職員が、男の入居者にうら若い女性職員が当たることがある。 男、特に教育勅語軍人勅諭で育った老人にとっては、廉恥の心は重大な宝物である。 素っ裸の身体を若き女性の前に曝すのは、如何なものか。 貞節を重んずべき日本女性が、汚れなき素肌を男性の前に曝すのは、恥じらいの心を揺さぶるものではないか。

介助の労にあたる男女職員は、恒常のお風呂サービスに、だんだん扱いに慣れてきて、格段の気恥ずかしさを感じることなく、ただ職業のため、給料にためと、気使うこともなく、グイグイと異性の肌を石鹸を付けたタオルで、時には、気付くことなく、恥部を含めて、撫で回し、こすり回す。

「セクハラ」どころではない。 恒常的サービスの提供で、このような破廉恥な(?)行為も「習い性となり」、相手が異性であるとも構わなくなってしまう。 このことは、絶えざる「身と心の引き締め」を介護職員に求めることを示すものである。 慣れるな。 日々、これ新た、なるぞ。