鞍馬天狗

夢寐のたわごと

「予(よ)」の時代

ここで云う「予」は、私のことではない。 予見、予想、予知、などで言う「予」で「あらかじめ」のことである。 その意味での「予」には、未来という意味がある。 「未然」という意味もある。

覆水は、盆に帰らない。 過ぎたることは、取り返せない。 死んだ人は、生き返らない。 死亡事故を起して、「申し訳ない」では済まされない。 死んだ人は、蘇らないからである。 「申す訳(わけ)」があろう筈がない。 だから、死なぬように、あらかじめ計らっておく知恵が必要である。

過去を悔やむよりも、悔やまぬように、事前に計らっておくことが必要なのである。 科学は、発達した。 しかし、「予防」科学は、未発達どころか、萌芽すらも見えない。 ましてや、「予知」に至っては、占いか、天気予報ぐらいなものである。 

ところで、自分の未来が予知できたら、どれくらい人生が味気なくなるだろう。
「未知」は、好奇の対象であり、危惧と恐れの対象でもあるとともに、人間の探究心をそそり、人間を駆り立てる。  未知の将来、未知の物、未知の世界があるからこそ、人間の生活は豊かになり、生きる喜びがある。 

「予」は将来であり、「先回り」である。 行先に、何物かがあるからこそ、「先」がある。 行先を知ることは、目標を知り、結果をも知ってしまうことである。 その先に何がある? なにもない。 この思索は、宇宙の果を知ろうとするに等しい。 この思索は、あるにしても、ありもしない、果てしない空虚がある。 これも、「小人、閑居して不善を為す」のたぐいか?