鞍馬天狗

夢寐のたわごと

高齢化

能(幸若舞)の演目に、織田信長が好んで詠ったと言われる「敦盛」がありますが、敦盛の一章に「人間五十年、下天のうちにくらぶれば夢幻のごとくなり」という言葉があります。 彼の時代、つまり、1534(生)には、人生は50年ぐらいと思われていました(事実、彼は49歳で本能寺で討たれました)。 然るに、現代(2018年)には、人間の寿命は、100歳だと言われています。

約500年で、人間の寿命は2倍になりました。 織田信長の時代にも、現代と同じように老人は居たと思います。 従って、「老人」観も、変わっている筈です。 では、どのように変わったのでしょうか? 私なりの現代の老人観を申し上げます。 50~60歳が「初老」、60~70歳が「中老」、70~80歳が「古老」80~90歳が「長老」、90~100歳が「廃老」だ、と言えます。

敬老ということを言いますが、具体的には、どういうことでしょうか?  私(長老)の実感では、特に、乗り物での実感ですが、長老が路線バスや電車に乗り合わせても、載っている人たちの殆どが、現代のいわゆる「老人(高齢者)」ですから、殆どの人は席に座ったまま悠然とかまえていますが、席を譲ろうとする人は、初老の年齢にある人たちに限られるようです。 初老以下の年齢の人係に乗り合わせても、眠っている(振りをしている)か、スマホで忙しい人です。 なお、ここで老人サイドから一言加えますと、老人は、長距離を走る電車を利用することは少なく、殆どの場合が、近場を走る路線バス利用です。

この事の具体的事例は、限りなくあります。 概して、「敬老」の実を見せる人は、初老の人が中心で、とくに女性が多いようです。 一番、そうでないのは、壮年(仕事で疲れいるのでしょう)、青年(素知らぬ顔で、思索や読書やスマホで忙しい)、少年(敬老は、言葉だけで認識している)、幼年(自分たちの優先を求める)、乳児(寝ている)。 なお、老人は、混雑する時間帯に公共乗り物を利用すべきではない、という非難の声も聞かれます(人権侵害です)。

最近は、少子高齢化が叫ばれています。 壮年、青年の働き盛りは、昔と違って、自分自身たちが「生きること」に一生懸命で、疲れているようです。 ちなみに、「敬老」を叫ぶ点については、政治家と事業家が一番です。 彼らには、概して「実」がありません。 愚直を唱え、老人を愚弄するばかりです。