鞍馬天狗

夢寐のたわごと

群衆の中の孤独

ここで言っている「孤独」は、一時的孤独のことではない。 小説家が夢想する観念的孤独でもない。 その中で、永続的に生活する現実的孤独のことである。

 

この施設には、90人前後に人が送り込まれている。 家族(子供)に、親戚に、知人に送り込まれているのである。 しかし、この施設の中に住む多くの人は、何故、この施設に送り込まれているのかの理由はもちろん、自分が孤独であるか、否かの認識はない。 だから、孤独だとは思っていないかも知れない。 

 

人権という抽象的観念がある。 この施設に住む人達の誰もが人権を持っているとされる。 しかし、ここの住人は、自分たちに人権があることは知らない。 それどころか、人権そのものを知らない。 だから人権は主張しない。 従って、周囲の人の言いなりになる。 殴られようと、叩かれようと、稀に、殺されようと、それは他人事である。

 

この施設に住む多くの人々には、自己主張がない。 でも、したいこと(やりたいこと)はあるらしい。 だから、相互に喧嘩だけはする。 にもかかわらず(だからこそ?)、人権を持つとされる。 

 

だが、この種の施設では、「自立者」をも受け容れる。 多くの場合、自立者は、自己を主張し、人権にこだわる。 従って、自立者は、ややもすると、この種の施設の中では、「孤独」を感じる。 施設内では、気性が合い、話し合うことの出来る他の自立者が少なく、社会、人間関係が成立し難いからである。

 

この自立者が、施設の中で感じる孤独感は、文字通り、「筆舌に、尽くしがたい」。その自立者が、自律的(自立的)であればあるほど、その孤独感は強くなる。

 

大抵のこうした施設は、「介護付き」である。 もちろん有料である。 自立者にとっては、介護は、「介入」以外の何物でもない。 金を払ってまで、自らの自由を犠牲にしてしまう馬鹿らしさは、自立者が「痛切に」感じるところである。 「我々に、自由を!」と叫んだ先人の魂は、ここでは消え失せている。