鞍馬天狗

夢寐のたわごと

孤独死

先日、「孤独死」をテーマにしたテレビ番組を見た。 見ていると、語られることの殆どが「死」の話じゃなくて、「生」の話だった。  考えてみると、「死」と「生」は極めて個人的なイベントであるにもかかわらず、「死」面したことがあっても、実際に「死」経験した人が居る筈がないから、「死」そのものは生者が語れる話題ではない。 従って。この番組で語られていた全部が、死に備えるための「準備」のことであり、死に至るまでの生きている間の、家族を含めた社会への配慮であった。

番組で紹介されていた統計によると、生者(視聴者)が「孤独死」についてどの程度の関心を持っているかを報じるものであったが、大半の人が「孤独死」に関心を持っていることが判った。 「怖いもの見たさ」という言葉もあるように、誰も経験したことのない「死」という事件は、誰もが、恐ろしく感じるし、知りたいはずである。 しかも、この事件は、一度経験すると、元へ戻れない。 「試し」の効かない事件である。

その怖いものを、知ろうとする人間の心理を巧みに捉えたこの番組は、適切だったかも知れない。 誰しも、自殺者が「清水(寺)の舞台から、飛び降り」たり、走ってくる列車に飛び込んだり、また、服毒したりするときや首を括ったりするときの気持ちがどんな気持ちなのかを知りたいだろう。 

切腹の場に置かれた武士の気持ちはもちろん、自分がそのように死に向かったときに、古人が抱いたような「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」の覚悟に徹し得るものかどうかも知りたいだろう。 そこまで深い「死」に対する関心を持っていなくとも、多くの人は社会的に、「立つ鳥、跡を濁さず」と考え、自分の死後のことを考えているだろう。 

しかも、死は誰にも訪れる避けがたい運命である。 このように、色んな意味で人の「死」は、多くの人の興味を惹くテーマであり、誰もが否応なしに直面せざる宿命である。 だが、如何せん、このテーマに直に(じか)触れ、実体験を報告した事例はない。 

私も、目を背けたい(そむけたい)とは思うものの、死に、特に自分の死には関心がある。 「怖いもの見たさ」の心理は、いつの世も、誰の心にも、私の心にも、働いている。 怖いものの中の最も怖いものが自分自身の「死」である。 とくに「人知れず」自分独りで寂しく死んで行く哀れな自分の姿を想像すると、鳥肌がたつ。

兎に角、死は誰にとっても「孤独」であり、「心中」や「集団自殺」を図る気持ちも判らぬわけではないが、如何に友(?)が傍にいようとも、彼は傍にいるだけで、死に行くのは独りである。

生きている間に死後の事を考えて置くのは、他人に心を使う社会的配慮ではあるが、あくまで、人生最後の「生き様」であって、「死に様」ではない。 私は、死に様とは、死に向かう当人の心の持ち様だと思う。 当人のみが理解出来るものである、と考える。 他人が、死に様と言うときは、死人の身体を命のない物体と認識し、その物体の有り様(姿)を指しているので、死んだ当人の心とは関係がない。


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しに‐ざま【死に様】の意味
1. 死ぬときのようす。 または、 死んだようす。 死によう。  2。 死にぎわ。
出展:デジタル大辞典(小学館)
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死は、いずれにしても、当人のものであり、孤独である。 死を迎えるに当たっては、① 残る人達への社会的配慮と ② 死に行く自分の覚悟以外に意味のある話題はない。 とくに、死に直面する当人の覚悟と気持ちが、話題としての「孤独死」の中核となるべきだ。