鞍馬天狗

夢寐のたわごと

比較

「金がないので、生活が苦しい」では、進歩はない。 進歩は無駄使いから生まれる。 豊かな日本では、貧しいXXX国に比べても、研究費が少ない。

今朝、あるテレビ番組で、日本人の「ノーベル賞」獲得数が減って行く、という話題について、話していた。 趣旨は、「日本の行政は、諸大学で行っている研究費への投資(補助)を増やすべきだ」、という点の強調にあった。 日本の大学の研究への投資が少ないので、日本では十分な研究が出来ない、先を読んだ研究が出来ない、という点であった。

私は、このテレビ番組を見ていて、「尤もだ」と思っていた。 確かに、日本の行政の先行投資は、お粗末だ。 金が無い無いと言いながら、嘘の公文書作成や公文書書き換え、そして役にも立たない物件への予算は、必要以上の組んでいるようだし、「先を読んだ投資」が少ない、しかし、それ以上に気になったのは、この話題を論議している人達が「(貧しい、後進の)XXX国に比べて、日本の研究費の少なさを嘆いていることだった」。

この比較の裏には、日本が「先進国である」という自惚れが潜んでいる。 たまたま引き合いに出されていた国は、旧日本の植民地(?)であったが、確かにその国は小さく、昔旧日本帝国の領土に含まれていたことがある。 しかし、なぜ、その国が、日本の(ノーベル賞)獲得数を誇る為の引き合いに出されるのか?

研究は、「比較」の問題ではない。 比較は抜きにして、兎に角、研究は進めるべきである。 研究は、他人がするのではない。 研究は、「自分が」進める。
他人がどうあろうと、自分が行う研究には関係がない。 第三者が統計上、比較するのは当然だろうが、その第三者が、横から研究に口出しするのは、論外である。 

貧乏でも、研究する人は、研究する。 その研究を横から眺めて、当人が知っていようと、いまいと、兎に角、援助するのは良い。 研究は、研究者当人にとっては、研究の中身は別として、研究という行為そのものは、没価値である。
ノーベル賞と研究とは、関係のない事柄である。 貰った人は、嬉しいだろうが、貰った喜びは、研究成果から得られる喜びは、別の喜びである。