鞍馬天狗

夢寐のたわごと

感性と理性

5ケ月経ってから、兄の死を知った。 甥(兄の息子)たちは、尊属である私に兄の死のことを全く知らせなかった。  兄のことを知ったのも、全く別の理由からであった。  来年の年賀状を、「父(兄)」の死んだため、割愛するというその甥たちからの慣例の年末の通知によって、兄の死を知ったのである。

兄が死んで直ぐ知らせなかった理由は、「他事にかまけていたから」と、極めて事務的な(しかし、合理的?)ものであった。 弟(叔父)の「感情」のことには、関心がないのか?  「忍び難い」という感情は、働かないのか? 

人の生死は、当人はもちろん、親族にとっても、極めて重大な事件である。 単に合理的に処置さるべき「事務的事項」ではない。  近頃の新聞、テレビなどの報道される登る色々事件は、全て例外なく他人事ごととして報じられる。

事件に巻き込まれた当人や親族にとっては、他人事ではない。 身近の出来事である。 事務的事項ではない。 心が揺さぶられる事柄である。 もちろん報道記者たちは、そう事件が起こる度に心が揺さぶられていたのでは、心がもたない。 報道記者としては、事務的に扱わざるを得ない。

そうだ。 事件や出来事が多すぎる。 報道記者たちは、事件や出来事の「量」に圧倒されているのである。 感情を働かす余地がない。 私の甥たちも、既に母を失い、今また父の死に遭遇して、おそらく、気も心もそぞろに転倒し、処置しなければならない事柄の多さに圧倒されていたのであろう。 涙を流す余裕がなかったのである。 ましてや、叔父の心などは!

量は、質を圧倒する。 量の処置は、理性に頼らなければならない。 感性では扱い切れない。 心の質は、理性で処置される時代を迎えている。 流す涙もミリリットルで扱われる。 アナログは、デジタル化しつつある。

クリスマス・カードも年賀状も省かれ、Eメールで済まされるようになってきた。 心付けやチップも伝票の上の「手数料」に取って代わられ、買い物をしても、キャッシュレスで支払い、全てコンピュータで合理的に処置され、詐欺ですら、デジタルに犯される。 「老兵は死なず、消え去るのみ」