鞍馬天狗

夢寐のたわごと

理知的理解と実践

人間には、理知と感性があります。 通常、この2つのものは、一体となっています。 従って、事に及んだ場合、理知的にだけ振る舞うことは不可能です。 当然、感情も作用します。 そこで、「泣いても、馬謖を切る」のでしょうか? それとも「馬謖を許す」のでしょうか?。

物事を、理解するは出来ます。 しかし、「どうするか?」は別の問題です。
孟母三遷と言います。 孟母は、明らかに賢い女です。 しかし、三遷となると話が違います。 借金はありませんか? ご近所との柵(しがらみ)は、どうなりますか?

状況に対応すると言います。 状況対応が必要なことは分かります。 しかし、「どう対応するか?」は、別の問題です。 対応の仕方は、自分の都合、相手の事情、周囲の状況、親や先生、そして仲間の意見、などを勘案して決まります。 実践は、理知だけの問題ではないのです。 人間行動は、「科学的」にだけで、処理出来ものではありません。

人間行動の実践には、感情がまとわりつきます。 心のパニックも、怒りも、悲しみや父母を失った直後の嘆きも、思いやりや、上司、仲間。両親、嫁や婿の両親、ご近所の人達の気持ちの忖度も、貰えるやも知れぬ賄賂や贈物の高も、物事の実践には、関わってきます。 人の感情は、変転します。 時間も、時の事情や流れも、近頃はマスコミの動向も、世間の評判も、社会全般の趨勢も、全てが物事の実践には関わってきます。

浅学、浅見ですが、朱子学は理論に傾き、陽明学は実践を重んじたと聞いています。 そして陽明学が攘夷勤王の後ろ支えになり、三島由紀夫の過激を導いたとも聞いています。 実践は大切ですが、出来もしないことを、実践しようとするのは無謀です。 無謀な理性の働きに手綱を掛けるのは、深慮遠謀です。 深慮も、理知の賜物です。

理性と感情、両々相俟って、事は成し遂げられます。 これは「ありきたり」です。 その「ありきたり」こそ、全体としての庶民の感情と理性です。 この庶民の総意、これが今必要とされています。 政治家や事業家(企業経営管理者)の悪知恵は、理知ではあっても役立たないばかりか、害になります。