鉄道大臣

夢寐のたわごと

様子見(ようすみ)2

様子見は、良く使われる言葉だ。 特に、医者が良く使うようだ。 診断の後で、「しばらく様子を見ていましよう」。 病気の治癒を願う患者にとっては、この様子見は「まどろこっしい」。 早く治りたい。 これが患者の「願い」である。 医者は、必ずしも「早く治したい」と思ってはいない。 ただ、医者としては、治せば良いので、治るまでの時間は、あまり問題ではない。

医者にとっては、当面の関心は治療のプロセスにあるので、治してやりたいとは思っているだろうが、「治る」という結果は、二の次である。 患者の立場から言えば、治療のプロセスは短い方が良い。 端的に言えば、医者は治してやるプロセスに、患者は治るという結果に関心がある。

この問題に関して、薬剤師の立場を持ち込むと、関心の所在、つまり、肝心事の食い違いが、もっと顕著になる。 薬剤師は、基本的に「薬」に関心を持っているので、患者の立場はもとより、医者の立場にも、直接的な関心はない。
薬の調合、医者がどのような薬を使うか、には、関心を持つだろうが、極端に言えば、薬剤師は、患者の病気の治る治らないには、関心は無い。

更に、この事情へ薬屋が一枚加わると、問題は複雑怪奇の様相を示し、ますます絡まってくる。 薬屋は、基本的に薬の売れ行きに関心を持つので、医師の立場、患者の立場、薬剤師の立場は、関心の外にある。 専ら、「儲け」に関心を集め(おそらく税務署の目にも)、時と場合によっては、医師、患者、薬剤師の立場を犠牲にしてででも、自分の立場にしがみ付く。

話が、「様子見」から外れてきた。以上で指摘したいことは、「分業」の害である。 これを裏返すと、「専門化(特化)」、つまり縦割り分業(業務割当)の害である。 業務があまり専門化されていると、横断的業務割当が出来ていないために、利用者(消費者)は、いろいろな不便、不利益を被うむることになる。 具体的には、大総合病院、大学、そして、中央、地方政府行政機関、の仕組/制度の縦割り業務割当がそうである。
 
話を元へ戻そう。 様子見は「時間稼ぎ」であり、「判断留保」である。 さらに、ややもすると、様子見は、責任回避(逃れ)に繋がる。 「自然の成り行きを見る」といえば格好はいいが、放っておけば、その内に「治るだろう」という姑息な考えが、裏に潜んでいる。

医者の場合、様子見は、体のいい近代版、落語で言う「手遅れ医者」である。 初めての患者に開口一番「手遅れですなぁ」という。 それで治れば、「天下の名医」、治らなくとも「言ったでしょう」で済む。 

といって、「様子見医者」を責める訳ではない。 本当に、様子を見ていると、そのうちに病気が収まってくることもある。 だから、素人診断も馬鹿には出来ない。 「手を焼く」事態も、様子見の内に収まることも少なくない。 手を焼くバカ息子も、年齢が高くなると、江戸の「火盗改、長谷川平蔵」のような名奉行(?)にならぬとも限らない。

病気に限らず、人間には自然治癒力がある。 言い換えると、人間は、内発的な自分の力で、困難を克服する事ができる。 「病は気から」という。 気の持ちようで(本気に成れば)、元気になれるし、「気」の毒にもなる。 様子見は、「気」転の軸である。 あっちにも、こっちにもなる。